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週刊現代

教会に結婚していい神父とダメな神父がいるのはなぜか?

佐藤優が説く『キリスト者の自由』

ルターに対する誤解

今年は、ルターが1517年に「95箇条のテーゼ」を発表し、宗教改革を始めてから500年にあたる記念の年だ。ちなみに宗教改革というのは、プロテスタント側の呼称で、カトリック教会は信仰分裂と呼んでいる。

「95箇条のテーゼ」は、キリスト教神学に詳しい人でないと読んでも意味がよくわからない。一般の読者には、ルターが1520年に公刊し、当時のベストセラーとなった『キリスト者の自由』の方が親しみやすい。

カトリック教会は、人間が救済されるためには信仰と行為が必要と説いた。これに対して、ルターは「信仰のみ」を強調した。この主張は、「心の中できちんとした信仰を持っていることが重要で、行為は関係ない」と誤解されることが多い。

ルターの真意は、信仰があるならば、それは必ず行為として現れる。信仰即行為なのである。信仰と行為が分離可能であるということを前提に構築されている、カトリック教会の「信仰と行為」という発想自体を批判したのだ。

プロテスタントの考えだと、人間が善行をいくら積んでも救済とはつながらない。善い、義しい行為が、善い義しい人を作るという発想を拒否し、こう述べる。

〈 善い義しい行為が決してもはや善い義しい人をつくるのではなく、反対に善い義しい人が善い義しい行為をなすのである。次には、悪い行為がもはや決して悪い人をつくるのではなく、悪い人が悪い行為を生ずるのである。

つまりどんな場合にも人格が、あらゆる善い行為にさきだってあらかじめ善且つ義しくなければならないのであり、善い行為がこれに従い、義しい善い人格から生ずるのである。

キリストが「悪い木がよい実をならせることはないし、よい木が悪い実をならせることはできない」と言われたのが(マタイ伝福音書七章十八)、まさにこれである。

もとより果実が木を結ぶのでないことは当然であるが、木も果実の上に生ずるのではなく、反対に木が果実を結び、そして果実が木にみのるのである。そこで木は果実よりもさきになければならないので、果実が木を善くも悪くもしない。反対に木が果実を善くもし悪くもする。

そのように人は善いまた悪い行いをする前に、その人格においてまず義しくあるいは悪くあらなければならない。そして彼の行いが彼を善くしたり悪くしたりするのではなく、彼が善いあるいは悪い行いをするのである 〉

なぜ結婚を禁じないのか

それでは、善い人格はどのようにして生まれるのだろうか。

人格が人間の努力や行為とまったく関係しないとするならば、善い人格はその人が生まれる前から、神によって定められていないとならないことになる。こうして、救われる人はあらかじめ選ばれているという「予定説」がプロテスタンティズムの人間観を形成する。これは、エリート主義とつながりやすい。

もっとも「私は選ばれているので、救われるためになにもしないでもよい」という発想をプロテスタントは取らない。このような発想をする人は、選ばれていないのである。

選ばれている人は、そのことに感謝して、一生懸命に働いて、隣人のために尽くすことで、神に喜ばれるべく努力しなくてはならないのだ。それだから、プロテスタントは勤勉になる。

カトリック教会の聖職者(神父)は独身だ。これに対して、プロテスタントには聖職者という概念がない。牧師も他の一般信徒(平信徒)と同じ人間で、聖なる存在ではない。それだから、結婚を禁止しない。