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南スーダンで私たちが思い知らされた国連PKOの「限界」

それでも日本は情勢悪化を認めない…
南スーダンで何が起きているのか? そもそもなぜ未曾有の人道危機となったのか? 大反響となった論考「日本では議論されない『絶望的な現状』」「政治問題を民族問題に変換した『悪魔の選択』」「『国づくり大失敗』の真相」につづき、民族・政治・歴史的背景から南スーダン問題を読み解く――。

ひとつの国に三つの国連PKO

スーダンおよび南スーダンと国連PKOのかかわりは深い。

第2次スーダン内戦の終結後、2005年から2011年まで国連スーダン派遣団(UNMIS)が派遣された。ダルフール地方には、アフリカ連合(AU)が2004年から停戦監視団という名目でPKOを派遣していたが、2007年からはこれに国連が合流し、合同派遣団(UNAMID)となり現在まで続いている。

南スーダン独立の直前、スーダンとのあいだで帰属が未決定で係争地域となっていたアビエイ地域に対するPKOの派遣を決議した。このPKOは国連アビエイ暫定治安部隊(UNISFA)と呼ばれ、現在も継続している。

つまり、南スーダンが分離独立する直前のスーダンは、ひとつの国に三つの国連PKOを抱えることになったのであった。これは、国連にとっても異例の事態であり、スーダンがいかに不安定な国であるかを如実に示している。

南スーダンの独立とともに、UNMISはその使命を終了し、あらたに南スーダンにPKOを派遣することが、国連安保理によって決定された。国連南スーダン派遣団(UNMISS)である。

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南スーダンは、UNMISに引き続いてUNMISSを受け入れることになった。南スーダンの人びとは、12年近くにわたって国連PKOと付き合ってきたことになる。

国連安保理は、独立の前日、2011年7月8日にUNMISSの派遣を決議した。当初は8000名規模(うち900名は警官)であり、主要な任務は、平和維持と平和構築、および人道援助の支援であった。この平和維持は、スーダンと南スーダンとのあいだの平和の維持を意味していた。

独立前の2008年と2011年には、アビエイ地域でスーダン政府軍とスーダン人民解放軍(SPLA)が衝突している。2012年には、アビエイ地域に隣接するスーダン領内の油田地帯に、SPLAが侵攻した。

スーダン政府軍との交戦はなかったが、スーダン政府は南スーダン領内に対する空爆を行った。2005年の包括和平合意(CPA)以降、2011年の独立後も、南スーダンの平和にとって最大の脅威はスーダンであった。

 

国連にとって平和構築は、1990年代から新たな意味を付与された広い概念となった。

武力紛争終結後の国や地域で実施される平和構築の事業には、武装勢力の戦闘員の武装解除、動員解除および社会復帰(DDR)から、紛争当事者間の和解、法制度と司法制度の整備、自由な選挙の実施、自由主義的な市場制度の導入と開発支援までが含まれる。

平和構築とは、政治、法、社会と経済の全領域にわたる広い概念であり、内戦で国土が荒廃し、国民が分断された状態から新しい国家と社会を建設する大事業を意味している。

つまり、広い意味での平和構築とは、近代の国民国家が数十年かけて達成したことを、数年間という短期間に凝縮して実現しようとする、きわめて意欲的で挑戦的な、言い換えれば、そもそも無理がある試みである。

とくに南スーダンのような、もともと国家が脆弱であり、長期にわたる内戦を経験し、国民は複雑に分断されている新生国家において平和構築を遂行することの困難さは、当初から予測されていた。