メディア・マスコミ アメリカ

『ジャッキー』が露呈させる「伝記映画」というジャンルの犯罪性

ケネディ大統領夫人は何を語ったのか?
寺田 悠馬 プロフィール

恣意的に捏造される物語

誰しもが聞き覚えのあるジャクリーン・ケネディの愛称を題名に冠すからといって、公開中の映画『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』(原題:Jackie)が、伝記映画だと勘違いしてはなるまい。

パブロ・ラライン監督の最新作は、近年ハリウッドで流行りのいわゆるバイオピック(biopic=伝記映画)とは一線を画すだけでなく、むしろ伝記であろうとする誘惑に、最後まで勇敢に抗い続ける映画だからだ。

ハリウッドが繰り返し描いてきたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺事件を、今度は大統領夫人に焦点を当てて、いささか悲劇的なメロドラマに仕立てあげるのかという予想を、映画『ジャッキー~』は、冒頭から裏切ってくれる。

暗殺の1週間後、様々なジャーナリストが書いた記事が、さも事件の真相であるかのように社会に流通する様子に、苛立ちを隠せないジャッキーの姿で、映画は幕をあける。彼女は、ついに自らの視点から事件を物語るために、ビリー・クルダップが演じるジャーナリストを、自邸に招聘したところなのだ。

かくしてジャッキーは、伝記映画の主人公としてではなく、これから1編の歴史的説話を物語ろうとする、伝記作家として映画に登場する。そして映画『ジャッキー~』は、1963年11月22日に、テキサス州ダラスを訪れたケネディ大統領夫妻の身に何が起こったのかを描くバイオピックではなく、1人の女性によって、あくまで恣意的に、物語が捏造されていく過程を露呈する映画として進行するだろう。

ケネディ暗殺を報じる新聞各紙〔PHOTO〕gettyimages

それでは、大統領暗殺に居合わせたという事実をして、ジャッキーが執筆を依頼する記事こそが、他の記事を差し置いて、真実として流通するにふさわしいのか? この疑問に対して、映画『ジャッキー~』は、一貫して否定的な姿勢を維持する。

自邸の正面玄関でジャーナリストを迎えるジャッキーは、彼を中に通す前に、インタビュー記事の完全な編集権を条件として提示する。

「私の歴史観を知りたい?……(歴史の本)を読むと、いつも不思議に思うの。文章として書きとどめられたものは、たちまち真実になるのかしら?」

とジャーナリストを挑発するジャッキーは、これから語られようとしている説話が、真実とは異なり、彼女が構築する虚構にすぎないことを隠そうともしない。

実際、インタビューを通して、最も重要な事柄を、時に感情的になりながら語り終えるたびに、ジャッキーは直ちに涼しい顔に戻って、その部分を記事にすることをジャーナリストに禁じてしまう。

インタビューの半ば、次々に煙草に火をつけながら、「私は煙草を吸わないわ」と言ってのけるジャッキーは、この種の記事が真実として社会に流通することの危うさに、誰よりも確信犯的なのだ。

 

かくしてジャッキーのパロール(話し言葉)は、そのごく一部だけが、ジャーナリストによってエクリチュール(書き言葉)に変換される。さらに彼女は、ジャーナリストの原稿を取り上げると、自らがペンを握ってエクリチュールを上書きしてしまう。

そしてインタビューの終了後、ジャーナリストが編集部に電話をかけ、ジャッキーによって推敲された原稿を読み伝える時、説話は再びパロールに変換されている。これが雑誌社でさらにエクリチュールとして再構築されて社会に散布するのを知る我々は、繰り返し加工された説話が、真実であるという幻想など、もはや抱くことを許されないのだ。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら