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週刊現代 文学

現代ロシア文学の傑作が教える、新人類誕生の恐るべき心理

佐藤優が説く『氷』の読み方

地上の愛はすなわち「悪」

日本でロシアの小説というとドストエフスキー『罪と罰』やトルストイ『戦争と平和』のような19世紀の古典ばかりがあげられるが、現代ロシアにも優れた作家はたくさんいる。

一人がウラジーミル・ソローキン(1955年生まれ)だ。ソローキンには、独自の表現(特に性と暴力描写)で奇想天外な構想を小説にまとめあげる天賦の才能がある。

筆者ならば「こんな難しい小説は翻訳できない」と諦めてしまうような難解なロシア語を、訳者の松下隆志氏は、原文の意味を損なわずに、わかり易い日本語にていねいに翻訳している。翻訳の技法という観点からも『』は傑作だ。

1908年、シベリアの寒村に巨大な隕石が落下した。この隕石には特殊な力があるらしく、ある種の人々に心(心臓)で話すことができる特別の能力を与える。なぜかこの特別の能力を持つ人はすべて金髪碧眼だ。

この能力を持つ人は、隕石の周囲にできた氷でハンマーを作り、人間の胸を強く叩くと、叩かれた人も心で話すようになる。心で話す第一歩は、現在の氏名とは別の「真の名」を名乗るところから始まる。大学生のラーピンはウラル、この物語の全体構造の語り部となる秘密警察女性職員のワルワーラはフラムというようにだ。

選ばれた人々は、兄弟団を形成しようとする。この筋書に沿って独ソ戦からソ連崩壊、エリツィン時代までのロシアの歴史が語られる。特に1990年代のマフィアが暗躍した混乱のモスクワの様子が見事に描かれている。

「選ばれた人々」の、

〈男は女の胎に己が子種を放つ。そして彼らは虚ろとなり、倦み疲れ、汗に塗れて眠りに落ちる。それからともに暮らしはじめ、子を儲ける。情欲は次第に彼らを去る。彼らは機械に変わる。男は金を稼ぎ、女は炊事洗濯をする。この状態のまま死ぬまで生きることもある。あるいは、他の人間に恋をする。彼らは別れ、厭悪の念とともに過去を振り返る。新たに選んだ男女に忠誠を誓う。新たな家庭を築き、新たな子を産む。そして再び機械と化す。この病が地上の愛と呼ばれるものだ。我々にとってはこれこそが最大の悪なのだ〉

という主張を簡単に否定できないところに現代社会の病理が現れている。

危険思想が噴出している

本書では、新しい人類誕生の恐るべき真理が記されている。隕石の落下によって地球に新しい生命体が生まれたのである。

〈我々が創ったクリスマスツリーの飾りの一つが地球に墜落した。それは史上最大の隕石の一つであった。

事の起こりは一九〇八年、場所はシベリア、ポドカメンナヤ・ツングースカ川の畔であった。それはツングース隕石と呼ばれた。一九二七年、高度な頭脳を有する人間たちが隕石探検隊を結成した。彼らは現地に赴き、なぎ倒された森を目の当たりにしたが、隕石は見つからなかった。この探検には十五名の参加者がいた。その内の一人は二十歳の男子学生で、白茶けた金髪と青い目を持っていた。

隕石の墜落現場に到着すると、彼はそれまで一度も感じたことのない奇妙な感覚を抱いた。心臓がおののきだしたのだ。それが起こるやいなや、彼は黙り込んだ。そして探検隊員たちと会話するのをやめた。彼は隕石がここのどこかにあると心臓で感じていた。隕石から若者を揺さぶるエネルギーが流れだしていたのだ。このエネルギーが二日の間に彼の人生を一変させた。探検隊員たちは彼が発狂したものと見なした。探検隊は収穫もなく撤退した。