アトランタ五輪の初戦、対ブラジル Photo by GettyImages
サッカー

アトランタ五輪代表に“まさかの落選”〜中田に感じた引け目

安永聡太郎Vol.5

(Vol.1はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50423

西野監督からの電話

1996年3月24日、オリンピック日本代表は準決勝のサウジアラビア戦で2対1と勝利。アトランタオリンピック出場権を獲得した。

28年ぶりのオリンピック出場権を獲得したことで、日本代表には大きな注目が集まっていた。

5月5日、抽選会が行われ、日本はブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと共にグループDに入った。初戦は7月21日、対ブラジル戦と決まった。

続く興味は、誰が代表の18人に入るか、だった。本大会では23才以上の選手をオーバーエージ枠として3人まで招集することができた。しかし、五輪代表の監督だった西野朗は早い時期に、「この年代に経験を積ませたい」とオーバーエージ枠を利用しないことを明言していた。

5月14日、チュニジア合宿の参加メンバーが発表されている。これは本大会の準備に加えて、選手選考の材料とするためだった。その中にはすでにA代表候補に選ばれていた三浦淳宏も含まれている。18人は、ワールドカップ登録メンバーの23人よりも少ない。チームの戦い方を絞り込んで選考しなければならなかった。

ただ、安永聡太郞はこの合宿を怪我という理由で辞退している。

ある日、西野から安永に電話が入ったという。

「ぼく、新聞で“(控え選手として選ばれるのならば)オリンピックに行きたくない”って言っちゃっていたんですよ。なんかカッコつけていたんでしょうね。すると西野さんはこう言った。“現状ではお前は11分の1ではない。ただ18分の1として考えている”と」

つまり、先発メンバーではないということだ。

 

「西野さんは“18分の1でいいか”と、聞いた。“それだったらぼくは試合に出たい。マリノスにいてレギュラーを獲ったほうがいいと思います”って。それは嘘ではない。素直な気持ちだった」

安永は苦笑いしながら、こう付け加えた。

「それでも(メンバーに)入ると思っていた。馬鹿だったから」

安永の自信は裏付けがなかったわけではない。中盤は中田英寿や前園真聖などの才能が揃っていたが、フォワードは限られていた。フォワードの軸だった小倉隆史は怪我で不参加、若く、伸びしろを感じさせる安永は“滑り込み”で入る可能性が高かった。

安永の記憶によると、メンバー発表前日、6月16日、当時契約していたスパイクメーカーの担当者から連絡が入ったという。

「担当者はぼくが五輪代表に入っていると聞きつけたんでしょう。“オリンピックのための特注のスパイクを仕上げるから”って。こっちは“ああ、了解っす”。やっぱり入ったと思っていた」

中田、松田に感じたひけ目

ところが――。

発表当日、安永はいつものようにマリノスの練習に参加していた。練習後、オリンピック代表に呼ばれた選手は集められるのが通例だった。

「うちからは、いつも(川口)能活、遠藤(彰弘)、(松田)直樹、ぼくの4人が選ばれていた。今までは4人集まれって呼ばれて、“お前ら、代表行ってこい”って言われた。でもその日だけは、能活、直樹、遠藤って1人ずつ名前を呼んだ。なんだ、変わってんなぁと思っていたら、最後にぼくが呼ばれた。そして“お前は落ちた”って」

そのとき、安永の体に立ち上ってきたのは、悔しさではなく、恥ずかしさだったという。