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ネットで注文した映画のDVDは、なぜなかなか開封されないか

僕と映画の70年史【前編】

映画を所有する

レナード・マーティンのMovie Guideという本に収録された映画は、10年前で2000作はあっただろう。いまではもっとある。

僕が体験した範囲内のことを書くと、この数千本の映画のほとんどが、主としてアメリカのDVDで手に入る。ふと思い出した映画をまた観たいと思い、検索してみると、DVDがある。そしてそれは、注文すると数日後には、僕のところに届くのだ。

現在の僕にとって、映画とは基本的にこのようなかたちだ。

新しいのも昔のも、等しくDVDを購入して所有する。一本の映画には著作権というものがさまざまに発生するだろう。その映画を、すべて丸ごと、一枚のDVDで購入して、所有する。

いいのだろうか。所有する権利はもっとも安い場合で500円ほどだ。こんなことがあっていいのかと、自分のものとなったDVDを手にするたびに、僕は思う。

DVDはその数が増えていく。本棚に本のようにならべておく。棚の数でいくつになったか。買ってすぐに観ることはあまりない。いずれ観る、そのうちかならず観る、としか言いようのない状態で、時間は経過していく。いつ、観るのか。一本で2時間以下ではないか。

しかし、まずその時間が取れない。時間そのものだけなら、充分にある。1時間30分だ、どうということはない。

しかし、一本の劇映画という、まったく別世界の、完結したフィクションが、自分の日常と接していない。日常の時間をかなり強引に中断させ、なにもかも自分の日常とはまったく異なったフィクションを、ひとりモニターで観る。という時間が、作り出せない。

日常は、それほど強固に、継続されているものなのか。そうなのかもしれない。一本の映画を観るとは、非日常のフィクションを、かなり無理して、自分の日常のなかに割り込ませることのようだ。

ごく最近、ふとその気になって、アメリカ映画のDVDを15本、購入した。単なるきまぐれではなく、はっきりした目的があって購入したDVDだ。いつ、観るのか。そのうち、としか答えられない。

 

Ted(邦題「テッド」)が日本で公開されたのは4年前のことか。ブルーレイが発売されてすぐに購入したが、まだ観ていない。Tedの公開に合わせてぬいぐるみが発売された。これもすぐに購入した。身長60センチの、たいそう良く出来たTedだ。

ブルーレイを買った時、買えば自動的にこのぬいぐるみの抽選に加わる仕掛けになっていたことを知らずにいて、ある日の午後、宅配便で段ボールの箱が届いた。なにか買っただろうかと思いながらその箱を開いたら、Tedのお尻をまず目にすることとなった。

お尻を見た瞬間、これはTedだと僕は思った。僕は箱を底から開いたのだ。

買ったぬいぐるみとまったくおなじものだったが、表情は微妙に異なっていた。ふたりに僕は名前をつけた。二匹、などと言ってはいけない。ひとりはテデ吉、そしてもうひとりは、テデ助だ。

プラスティックで出来た簡潔なかたちの、まるで専用のようによく似合うイタリー製の椅子ふたつの上に、それぞれ立って壁ぎわにならんでいる。お腹のどこかを押すと、ふたりとも言葉を喋る。R指定はどうでもいいこととして、Tedの喋る言葉は悪い。僕の言葉よりも悪い。