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社会を変えるのに絶対欠かせない、私たちの「意外な感情」
【連載】たそがれる国家(6)

社会が変わるとき

歴史の変わり目には、これまでの社会や政治、経済などの問題点がよくみえるようになる。

たとえば、幕末期の日本もそうだった。武家社会や武家政治の問題点や稲作を基盤とした経済体制と現実の経済とのあいだには軋轢が存在していた。

といってもそれが人々の生き方に大きな変動を与えたわけではない。大多数の人々は、昨日までと同じように今日も、明日も暮らそうとしていた。

それはいまの私たちも同じである。昨日までと同じように働き、会話をし、食事をとって眠る。そんな日々をつづけている。

ところが、にもかかわらず、時代の変化はひたひたと押し寄せてくる。そこからふたつの感情が生まれてくる。

ひとつは不安な感情で、昨日までと同じような明日はなくなるのかもしれないというような不安が、人々の心のなかに芽生えてくる。

もうひとつは飽きるという感情で、それはこれまでと同じように生きることに飽きてきた、というようなものである。

私が哲学や社会科学系の諸学問の勉強をはじめた頃、それらの分野の本には、社会のなかに矛盾が堆積し、ついには旧体制を維持できなくなって社会変革が起こるというようなことが書かれていた。

ところがあるとき冷静に振り返ってみると、矛盾が堆積していたはずなのにそれほど大きな社会変革は起こっていないときもあるし、以前より矛盾が堆積したとは思えないときに大変革が起こっていることもあるのである。

 

変革が起こった後で、なぜそれが起こったのかというかたちで説明づければ、矛盾が堆積していたからだと説明することもできる。それは、いわば後付けの理論である。

ところが、社会の矛盾と人々の生き方の関係をみていくと、必ずしも矛盾の拡大が変革をもたらすとは限らない。社会構造としては矛盾があっても、それが変革をもたらすとはいえないのである。

なぜなら変革は人間たちがおこなうものだからである。

社会を変えようという動機が人間には必要であり、その動機は分析によってえられるものより、感情的にとらえられるものの方が大きい。

それはたとえば離婚という個人にとっての大変革が、家族の構造分析によってその矛盾をとらえたからというようなものではなく、一緒に暮らしつづけることが不安でしかなくなったとか、どうしようもないくらいに飽きてしまったというような感情的動機によって発生するようなものなのである。ただしこの場合でも、後付けで原因を探れば、家事、育児に協力しない夫とか、浪費癖のある妻とか、……といったことが説明される。

人間たちにこのままではいけないという衝動を与えるものは、不安や飽きるといった感情なのである。だからそれが大きくならないうちは、人間たちは昨日までと同じように明日を生きようとする。

しかし明日への不安が大きく自分の心をとらえるようになったり、これまでの生き方に飽きてしまったという感情が高まったりすれば、昨日までと同じように明日を生きることは苦痛になる。

今日とは、そんな時代に向かいつつあるのだろう。

一方では不安が広がっていく。他方ではこれまでの生き方に飽きた人々が出てくる。

後者の人々は勤めていた企業を辞めたり、地方に移住したりしながら、飽きた世界からの脱出をはかっている。