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人間には「うつ」と「喪失体験」が必要不可欠である理由
忖度依存社会を乗り越える

「うつ」と「うつ病」の違い

最近「うつ」や「うつ病」が話題となることが多い。

しかし、一般の方で「うつ」と「うつ病」を区別されている方は少ないだろう。「うつ」の方が広い意味で使われる言葉であって、人間が何らかの挫折や喪失を経験して、気分の落ち込みを経験することも含んでいる。

それはつらいことではあるが、ある意味で人間が人間らしくあるためには必須の出来事であり、それを通じてしか得られない成長もある。

「うつ」状態になっている方の一部に、「うつ病」を患っていると見なされる方々がいる。

「うつ」と比べて「うつ病」は、人間的なものであるというよりも、脳を含む神経系を中心とした身体の一部が、その機能に一過性の不調を生じる「病気」であると見なされている。

悲しいことを体験したから落ち込むだけでは「うつ病」らしくはない。「うつ病」らしいのは、外側から何らかの刺激がもたらされても、それに活発な反応ができないほど身体的に弱っているような状況である。

したがって、重症化した場合には抗うつ薬の投与などの身体に働きかける治療が中心となる。軽症の症例についても、最近では運動指導の有効性が指摘されるなど、生活のあり方に介入することが重要と考えられるようになった。

「うつ」と「うつ病」の区別は、精神科医にとっては非常に重要である。その両者では、求められる対応が異なっているからだ。

最近は「うつ病」について啓発活動が盛んになってきているが、その一方で、人間的な出来事としての「うつ」が話題になることは少ない。昨今のそのような状況においては、「うつ病」に対して適切とされる態度が、より一般的な「うつ」に対しても向けられているのではないか、という不安がある。

「うつ病」については確かに治療してその症状が無くなることが望ましい。しかし「うつ」の大部分については、つらくはあるが人間の経験として不可欠なものであり、それを甘んじて受け取り、悲しさや悔しさのような感情を味わう以外に対処のしようのない場合もある。

私たちの日常で「うつ」をただひたすらに排除するような風潮が強まることは、文化の全体を深みのない軽薄なものとしてしまうだろう。「悲しさ」の感情を認めない明るさと行動的で活発なだけの生活は、私には息苦しい。

なお、今回の原稿に記した内容は、精神医学界全体で認められている見解ではないことをあらかじめお断りしておく。

精神病理学や、力動精神医学と呼ばれる分野で議論されてきた内容で、これらの分野は人間の深層心理について考察するために、明確に真偽を判定することが難しいという批判がある。

しかしながら、それなりの知的伝統の中で育まれてきた一定の価値がある内容だと考えるので、筆者としては、読者の皆様に、一つの参考意見として受け取ってもらえれば幸いである。

 

新しい環境への適応を妨げるもの

この4月から新しい生活を始めた方がたくさんおられると思う。その方々の前途が希望に満ちたものであることを願うとともに、新しい環境での成功のために必要な心理的な準備がどういうものであるかについても考えたい。

重要なのは、古い環境との心理的な「お別れ」が無事に済まされているのかどうか、ということである。

新しい環境が始まったということは、古い環境が終わったということを意味している。そして、意識的・無意識的な心の体制が、古い環境に適合しやすいようなままであり続けた場合には、新しい環境への適応が妨げられやすい。

では、どのような場合に古い環境との「お別れ」が成し遂げられなくなるのだろうか。