私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」
「する」と「される」の外側へ
國分 功一郎 プロフィール

「する」と「される」の外側へ

私は最近、『中動態の世界』(医学書院)という本を出版しました。

中動態というのは、英文法でやった能動態・受動態の仲間です。かつての言語では、能動態と受動態ではなくて、能動態と中動態が対立していました。たとえば古典ギリシア語を勉強する時には、中動態の活用を学びます。受動というのは中動態がもつ意味の一つに過ぎませんでした。

誤解を恐れずに単純化して言うと、中動態というのは、「する」と「される」の外側にあるものです。私たちは様々なことを、「する」(能動)か「される」(受動)に分類してしまいます。しかし、かつてはこの分類に入りきらないものをきちんと認める文法が存在していました。

「謝る」や「仲直りする」は、まさしく、「する」と「される」の分類では説明できないものです。

「私が謝罪する」という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の「能動性」を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に「私が悪かった」という気持ちが現れることが重要だからです。

また「謝る」が能動として説明できないからといって、これを受動で説明することもできません。できないというか、それを受動で説明しようものなら、大変なことになってしまうでしょう(もちろん、謝罪会見では、多くの人が「私は謝罪させられている」と思っているでしょうが)。

要するに、「する」と「される」、能動と受動の対立では、「謝る」という行為をうまく説明できないのです。『中動態の世界』では他にもいくつかの行為を分析していますが、これは「謝る」のような心に深く結びついた行為にのみ当てはまることではありません。

たとえば歩くという基本的行為ですら、ちょっと分析してみると、「私の身体において歩くという行為が実現されている」と説明しなければならないものであることが分かります。歩くという行為が実現するためには、実に多くの条件が満たされねばならず、したがって、「歩こう」という意志が歩くという行為を引き起こしているとはとても言えないからです。

能動と受動という区別は実は非常に不便なものです。フランスの言語学者エミール・バンヴェニストがはっきりと述べていることですが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではありません。

バンヴェニストは多くの言語がこの対立を知らないし、そもそも、英語やフランス語などの印欧語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだと強調しています。というのも、既に述べたように、かつて言語の中にあったのは、能動態と受動態の対立ではなくて、能動態と中動態の対立だったからです。

かつて、行為や出来事は今とは全く異なった仕方で分類されていました。いまのように能動と受動でこれを分類するようになったことの背景には、おそらく、責任という観念の発達があります。「これはお前がやったのか? それともお前はやらされたに過ぎないのか?」──責任をはっきりさせるために言語がこのように問うようになったのです。

責任の観念と結びついている以上、能動と受動の区別を易々と捨て去ることはできません。しかし、この区別が決して普遍的ではないこと、それどころか、かなり不便なものであることもまた事実です。

 

謝るという行為がしばしば誤解されていることも(いや、誤解していたのは私ぐらいかもしれませんが……)、私たちが今使っているこの言語の性質と無関係ではないだろうと私は考えています。

妻と娘が伝えてくれた「謝ること」を巡る教えが、中動態についての本を書くきっかけだったわけではありません。しかし、執筆のための調査をしながら、この教えの意味をより深く理解できるようになったという実感があります。

中動態は決して神秘的なものではありません。小難しい哲学の概念でもありません。またいわゆる「西洋」に対立させられた「東洋的なもの」でもありません。かつての言語が有した一文法事項にすぎません。

しかし、能動態でも受動態でもない態が存在していたという事実は、これを初めて知った人にとっては確かに驚きであろうと思います。私も大変驚きました。ですので、だいぶ時間がかかりましたが、本を書くまでにいたったのです。

中動態の意味や歴史を正確に位置づけようとすると、結構面倒なことがありまして、それなりのページが必要になります。この記事を読んで関心を持って下さった方は、ぜひ『中動態の世界』を手に取ってみてください。

そうそう、「関心を持つ」や「勧められて本を手に取る」も、能動とも受動とも言えませんね。

僕らの身の回りで起こっているのは、この区別が当てはまらないことばかりなのです。