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私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」
「する」と「される」の外側へ

「する」と「される」――能動と受動の世界をあたりまえに生きている私たち。しかし、歴史をみれば、「する/される」では語ることのできない「中動態」というものがあったのです。

中動態って何? それは能動と受動の中間なのか? そして、なぜ消えてしまったのか?……「する/される」の外側――中動態の世界に関するさまざま問いをスリリングにひも解いていく『中動態の世界』(医学書院)が大きな話題となっています。

発売即重版となった本書を上梓した哲学者・國分功一郎さんが「謝ること」を例に「中動態の世界」の入り口にご案内。世界の見え方が少しずつ変わることになるでしょう。

 

「謝る」とはどういうことか

突然ですが、皆さん、人に謝ったことがありますか?

僕はつい最近まで人に謝ったことがありませんでした。もっと正確に言うと、謝るということがどういうことなのか全く分かっていませんでした。

もう一つ、皆さん、誰かと仲直りしたことがありますか?

僕はつい最近まで人と仲直りしたことがありませんでした。もっと正確に言うと、仲直りするというのがどういうことなのか全く分かっていませんでした。

謝るというのはどういうことでしょうか?

最近はメディアで、人が謝っているのを目にすることが多くなったような気がします。「謝罪会見」というのもよく目にします。そういった場面では、人が「すみません」とか「申し訳ありません」と言って頭を下げています。

私が誤って人を傷つけたり、物を壊したり、約束を破ったりする。そのとき私は謝ります。たとえば私は「すみません」「申し訳ありません」などと口にして頭を下げる。

謝るという行為は一般にはそのようなものとして理解されています。

しかし、ここで注意しなければならないのは、謝るという行為は一人では完結しないということです。人が謝る時には、その謝罪を受け取る相手がいるのです。

では、謝罪を受け取る側からも、謝るという行為のことを考えてみましょう。相手の謝罪を求める側は、「謝罪を求める」ということでいったい何を求めているのでしょうか?

相手が「すみません」「申し訳ありません」「もうしません」「私が悪かったです」などと口にして頭を下げていても、謝罪を受けたという気持ちにならないことがあります。

なぜでしょうか? 謝罪している側の心の中に「本当に自分が悪かった」という気持ちが現れていないならば、それがやはり何らかの仕方で謝罪を受け取る側に伝わってしまうからです。

人に謝る時、謝罪の言葉や動作を示すことはもちろん大切でしょう。しかし、謝るという行為において本質的なのはそれよりもむしろ、私の心の中に「本当に自分が悪かった」という気持ちが現れることです。

そして、どんなに「謝るぞ」と思ったところで、一定の条件が整わなければ、そのような気持ちが心に現れることはありません。人は謝ろうと思って謝ることはできないのです。

確かに謝るのは私であり、「私が謝る」のですが、しかし、謝罪において求められているのは、単に私が謝罪の言葉や動作を示すことではありません。私の中に謝らなければならないという気持ちが現れることこそが大切なのです。