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南スーダン 国際・外交

南スーダン、政治問題を民族問題に変換した「悪魔の選択」

そして国民はお互いに殺し合うことに…
南スーダンで何が起きているのか? そもそもなぜ未曾有の人道危機となったのか? 大反響となった論考「日本では議論されない南スーダン『絶望的な現状』〜これが本当の論点」につづき、民族・政治・歴史的背景から南スーダン問題を読み解く――。

内戦が常態になった国

1945年以降、70年以上にわたって平和が続いている日本に住んでいる日本人には理解しがたいが、スーダンおよび南スーダンという国にとって、戦争は異常な事態ではなく、いわば常態となっている。

しかもこの戦争はすべて内戦である。内戦とは、国民どうしが殺し合う戦いのことである。

日本も幕末から明治初期にかけては、いくつかの内戦を経験した。しかし、1877年の西南戦争が最後の内戦であった。つまり、140年間にわたって内戦を経験したことはない。

1956年にイギリス=エジプト共同統治から独立したスーダンは、数々の内戦を経験してきた。

まず、2度にわたったスーダン内戦がある。

第1次内戦は、独立前年の1955年に開始され、1972年に終結した。1983年に開始された第2次スーダン内戦は、2005年1月に調印された包括和平合意(CPA)によって終結した。

和平交渉が進展しつつあった2003年、スーダン西部のダルフール地方ではあらたな内戦が勃発した。2011年の南スーダンの独立前後には、スーダンの南コルドファン地方と青ナイル地方が内戦状態に陥っている。これら3地方の内戦は現在も継続している。

このほかにも、スーダンと南スーダンのどちらに帰属するのかいまだに確定していないアビエイ地域では、2007年に戦乱が発生している。

スーダンの一地域であった南部スーダンは、2011年1月に実施された住民投票の結果、同年7月に独立し、南スーダン共和国となった。この独立は、多大な犠牲の上に築かれた成果であり、長年にわたって筆舌に尽くしがたい苦難を経験してきた国民は、新国家に平和と発展への希望を託した。

しかし、この希望は、すぐに裏切られることになる。南スーダンは、独立後わずか2年5ヵ月をへて、ふたたび内戦状態に陥ることになった。

さまざまな軍隊――戦闘の主体の多様性

国家間の戦争の主体は、A国の政府軍とB国の政府軍であり、国家内の戦争である内戦の主体は政府軍と反政府武装勢力である。この一般的理解は正しい。

しかし、現代世界の内戦を考えるときに重要なのは、政府側と反政府側の双方が軍事的に一枚岩ではなく、さまざまな軍隊が存在するという事実である。しかも、これらの軍隊は、融合と分裂、合従連衡を繰り返すので、部外者には状況が錯綜して不透明に思える。

スーダンと南スーダンは今もこうした状況にある。さらにこうした特性は、アフガニスタンやイラク、シリアの内戦でも同様であるといえる。戦争が常態であるという状況と同様、こうした内戦の特性も現在の日本人にはとても理解しにくい。

 

第2次スーダン内戦は、主としてスーダン政府軍とスーダン人民解放軍(SPLA)とのあいだで戦われた。

「主として」と述べたのは、スーダン政府側には、政府が組織した「大衆防衛軍」と「部族民兵」という2種類の軍隊があり、SPLAも1991年に主流派と反主流派に分裂し、その後さらに分裂を繰り返したからである。

大衆防衛軍は、内戦は「聖戦」であるという政府の号令に基づいて徴兵に応じたムスリムの若者たちから構成されていた。部族民兵は、さまざまな民族を基盤に組織されていた。

SPLA反主流派は、敵であるはずのスーダン政府と同盟関係を結び、SPLA主流派と戦った。また、ヌエル人という民族を基盤に組織された「ホワイト・アーミー」(白軍)は、SPLA反主流派と同盟関係にあった。

2005年の包括和平合意は、スーダン政府の政権党である国民会議党(NCP)とスーダン人民解放運動(SPLM)とのあいだで調印されたものである。

和平合意の前後に、多数あった南スーダン人の軍隊のおおくは、SPLAに統合された。その結果、SPLAの兵力は大幅に増加することになる。

しかし、ひとつに統合された「国軍」に改編されずに、もとの軍隊のまとまりを保ったまま、名目的にはSPLAとして存在していたのだった。

2013年12月、ジュバが動乱状態になったとき、寄せ集めにすぎなかったSPLAは、あっというまにもとの軍隊を単位に分裂してばらばらになった。

つまり、南スーダンの内戦は、新国家が国家建設と国民建設に失敗したことと同時に、国軍建設にも失敗したことを表している。

SPLA将兵のなかには、抽象的な概念である国家、あるいは国家元首であり総司令官である大統領ではなく、もともと属していた軍隊の司令官に対する忠誠心のほうが強いものが多数いたのである。