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正気ですか?「パン屋は愛国心が足りない」という道徳教育の愚

政治と道徳の笑えない関係
辻田 真佐憲 プロフィール

ようやく大きく動いたのは、遅れて第二次安倍晋三内閣のときだった。

2013年、首相の私的諮問機関である教育再生実行会議の第一次提言で、道徳の教科化が「いじめ対策」として打ち出された。そして、中央教育審議会などの検討をへて、2015年「学習指導要領」が一部改正されて、道徳が「特別の教科」として教科化されたのである。

道徳の教科化は、小学校では2018年度より、中学校では2019年度より実施される。冒頭で紹介した小学校道徳の教科書検定は、これに備えて行われたものだった。

戦後、保守派は様々な社会問題を解決する特効薬として道徳教育の導入・強化を主張しつづけた。その動きは革新派によって阻まれていたが、90年代以降その退潮によって抑えがなくなり、ついに道徳の教科化を実現するにいたったのである。

このように道徳教育は、戦後も政治の動きと不可分だった。

政権周辺で杜撰な教育論が横行

道徳教育はかならず政治に翻弄される。これは避けられない。そして道徳教育が中立的でも科学的でもありえない以上、そこにはつねに価値観の押しつけなどの問題が含まれてしまう。

そこで、道徳教育に対してつぎの3つの対応が考えられる。

①政治家や文部科学省に道徳教育への介入を諦めさせる。
②国民が積極的に関与して道徳教育をよりよい方向に導く。
③国民が道徳教育など保守派の玩具だからと笑い飛ばして無視する。

戦後長らく、日本社会では①と③が主流だった。革新派が道徳の教科化を食い止め、ノンポリな多くの国民は道徳教育など意に介さなかった。これはこれで、ある時期までうまくいっていた。

ところが、先述したように、90年代以降保革対立の構図が崩れ、保守派が伸長するなかで、道徳の教科化が実現するにいたった。いまや国民の無関心をよそに、政権に近い保守系論者たちによる杜撰な教育論がとめどなく影響力を増している。

ここで少し、首相の私的諮問機関などの周辺で語られてきた教育改革の議論を振り返ってみよう。

教育改革国民会議(小渕恵三→森喜朗内閣)の報告書では、「いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している」「子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている」などと無根拠に決めつけられ、「学校は道徳を教えることをためらわない」「奉仕活動を全員が行うようにする」などとの方針が打ち出された。

教育再生会議(第一次安倍内閣)では、「『親学』に関する緊急提言」が一時検討され、「脳科学では5歳くらいまでに幼児期の原型ができあがる」などとして「子守歌を歌う」「授乳中はテレビをつけない」「早寝早起き朝ご飯」などの具体案がまとめられた。

これはさすがに自民党内でも問題視されて取りやめになったが、「親学」自体はその後も保守派の教育論として一定の影響力を保っている。

それ以外にも、「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」(三浦朱門)とか、「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」(教育改革国民会議第一分科会配布資料)とか、「日教組をぶっ壊すために火の玉になる」(中山成彬)とか、問題含みの発言や資料はこの時期枚挙にいとまがない。まさにタガが外れたかたちだ。

さらに2014年小中学校に配布された文部科学省製作の道徳教材『私たちの道徳』には、歴史的な根拠に欠ける「江戸しぐさ」なる風習があたかも史実であるかのように紹介されたこともあった。

詳細は拙著『文部省の研究』に譲るが、ここ約20年間の教育改革ではかくも杜撰で異様な議論が横行していたのである。