学校・教育 行政・自治体
同志社大学の名物教授が「突然の退職」を通告されるまで
【ルポ・大学解雇】
田中 圭太郎 プロフィール

訴訟以外に闘う手段はナシ

浅野氏が学校法人同志社を訴えた裁判。提訴から3年1か月が経過した今年3月1日、京都地裁で判決が言い渡された。

浅野氏は裁判で「健康上の理由や自己都合など特段の事情がない限り、65歳以上の定年延長が認められなかった例はなく、定年延長は慣習」と主張してきた。

しかし、堀内照美裁判長は「大学院教授のほとんどの者が定年延長されているのは、審理の結果にすぎない」として、「特段の事情がない限り定年延長がなされるということはできない」と浅野氏の訴えを却下。「それ以外の浅野氏の訴えは判断するまでもなく、請求の理由はない」と、浅野氏が定年延長を拒否された経過の瑕疵については判断を避けた。

浅野氏は「被告の主張をコピペしたふざけた判決。高裁で逆転勝訴を目指す」と話し、すでに大阪高裁に控訴した。裁判は今後高裁で争われることになるが、同志社大学の他学部の教授は、取材に対し次のように話している。

「大学院の教授は特段の理由がなければ、院生がいなくても、研究所がなくても、定年延長されると認識している。実態をふまえていない判決だ」

定年延長制度がある他の大学の教授も、浅野氏の裁判を注目している。傍聴に訪れていた関西大学の教授は「同志社のやり方は納得できない。浅野さんには頑張ってほしい」と話していた。

なお、筆者は一連の裁判について、京都地裁判決後に同志社大学に取材を申し込んだが、「この裁判についての取材にはお答えしていない」という回答だった。

 

教員の解雇をめぐるトラブルは、報道される機会が少ない。大学側が教員の処分や解雇を発表した場合、報道機関は「大学が言うのだから、間違いはないのだろう」と捉えるのか、掘り下げて取材をしようとは思わないのかもしれない。

しかし冒頭にも触れたように、実際には大学教員の解雇や雇い止めをめぐる訴訟は増え続けている。前出の札幌学院大学の片山一義教授(労働経済論)は、大学教員が不当に解雇された事案をまとめたWEBサイト「全国国公立私立大学の事件情報」を開設している。

「全国国公立私立大学の事件情報」
http://university.main.jp/blog/

このサイトを見ると、私立大学だけでなく国立大学法人でも多数の訴訟が起きていることがわかる。掲載されているのはあくまで片山教授が知った事案だけ。大学の教員には横のつながりがあまりないため、もっと多くの大学で不当解雇が起きている可能性が高い。不当解雇された当事者は、孤独な闘いをしているか、泣き寝入りしているのではないか。

片山教授は不当解雇によるトラブルが増加した背景に、生徒数の減少とともに、国の大学政策の変更があると指摘する。

ひとつは2004年の私立学校法の改正。この法改正では大学の理事会の権限が強化され、理事会の思い通りに教員の採用や解雇ができるようになった。もうひとつは学長の権限を強めた2014年の学校教育法の改正。教授会の権限は、この改正によって学長の諮問機関レベルにまで下げられた。

いずれの政策変更も、学校を運営する側と、教育を担う現場との力関係のバランスを崩し、運営側の思い通りに解雇や人事異動が行われることにつながった。大学自治のしくみが変わったことで、解雇をめぐるトラブルは今後も増えていくだろう。

不当解雇が起こる多くのケースは、学部・学科の統廃合による教員削減か、浅野氏のように「教員不適格」といった理由による恣意的な解雇だ。大学の一部の人間により密室で協議されるため、本人が解雇されたことに気がつくのはそれが決まったあとになり、闘うには訴訟という手段を採るしかなくなってしまう。あまりに理不尽ではないだろうか。

「天下り教授」ばかりが跋扈する

多くの教員が解雇されている一方で、文部科学省の官僚が大学などに組織的かつ大量に天下りしていたことが明らかになっている。文部科学省の現職幹部とOBが協力し、国家公務員法違反を犯したうえで「天下り教授」が生まれていた。

片山教授によると、文部科学省からの大学教員や事務職員への天下り自体は2000年頃から増えており、これが従来勤務している教授らの不当解雇を引き起こす要因になっているという。新自由主義的な大学改革を推し進めるなかで、大学は文科省と密接な関係を持とうと考える。その改革の行きつく先は、教員のリストラが中心だ。

助手や講師、准教授を長い間務めながら、論文などの業績が認められて、ようやく教授のポストに就ける。民間から登用される教授も、それまでの業績の積み重ねがあって教壇に立つことができている。そんな教授の職を、大学の都合や一部の人間の感情によって、簡単に剥奪してよいものなのだろうか。

教員の解雇をめぐるトラブルの増加が、結果的に大学教育への信頼を損なっていることに、運営側の人間は気づいていないのかもしれない。