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宇多田ヒカルが「天才」であるこれだけの理由
『Fantôme』とは何だったのか

宇多田ヒカルは、どういう意味で「天才」なのか?

『Fantôme』を含む彼女の作品を文芸評論家の目で評した『宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌』(毎日新聞出版)の著者・杉田俊介氏(批評家)と、音楽業界の構造的変革を論じた話題書『ヒットの崩壊』の著者・柴那典氏(音楽ジャーナリスト)の対談が実現。

「詩人」として捉えたときに見えてくるものを考えた前編につづき、後編では『Fantôme』の収録作を中心に、宇多田ヒカルの次なる歩みを見つめます。

(構成・長谷川賢人/写真・YoungJu Kim)

なぜ、宇多田ヒカルの歌詞は宗教性を帯びるのか?

 杉田さんは『宇多田ヒカル論』を書くにあたって、自分の実人生との関係性から対象に光を当てる「印象批評」に近い手法を取ったとのことですが、宇多田ヒカルはどこがキーポイントになりましたか?

杉田 使い古された言い方だし、誤解を招くかもしれないけど、宇多田さんは「天才」だとあえて確認するところから今回の本ははじめてみたんですね。

ただ、ここでいう天才って、凡人や常人とは全く異なる超常的な人間のことではありません。むしろ、誰もが知っているありふれた日常の豊かさを全面的に生ききる、そうした生き方。そういう生き方ができる人間を天才と呼んでみたんですね。ナチュラルな天才と。

逆にいえば、それぞれの環境や場所で、本当は誰もが宇多田さんのような生き方ができるはずではないか。それは怖いことですけれども。

宇多田さんは幼い頃からかなり特殊な家庭環境、音楽環境に生まれて、普通であれば狂ったり、病んだり、死んでしまっていてもおかしくなかったけれども、それでも清も濁も、真実も嘘も、美しいものも醜いものも、全てを飲み込んで、消化して吸収して、それらを自分の血肉にしながら発酵させて、それでもひたすらナチュラルであり続けてきた。そこに驚きや凄みを感じます。こんな生き方、歌い方ができるんだと。

 

 本の第一章は「天才(natural)について」と題されていますね。本の中ではナチュラルという出発点に加えて、「ULTRA(ウルトラ)」というフレーズも出てきます。

杉田 どちらも宇多田さんがよく使う言葉で、今回の本ではそれらをキーワードとして宇多田さんに接近してみました。単純化すると、ナチュラルは水平的な軸で、ウルトラは垂直的な軸です。

普通であれば、恋愛関係では「相手と一体化したい、親密な関係になりたい」という気持ちが出てくるのですが、彼女の場合はそこに「絶対に一緒になれない。むしろ好きになるほど相手が遠ざかっていく」という距離(Distance)が混ざっていく。Distanceがあるからこそ永遠のFirstLoveがあるんだ、という。そこには、身近な恋愛関係の中にすら、ある種の宗教性や祈りみたいなものが宿っていきます。

たとえば目の前にいる相手との恋愛関係の中に、お母さんとの関係が重層化されたり、もっと抽象的な、神的な存在との関係が重ねられたりしていく。そういう感覚を「ウルトラ」という言葉でとらえようとしました。

特に3枚目のアルバム『Deep River』から4枚目の『ULTRA BLUE』のあたりで、ウルトラモードの宇多田さんが弾けて全面化したというのが、僕の宇多田ヒカル論の大きな流れのひとつです。

 まさにそこは、今までに語られていなかったポイントだと思います。他の宇多田ヒカル論は基本的にはポップシンガーとしての状況論を基盤にしている。でも、杉田さんの『宇多田ヒカル論』は、言い切ってしまうと宗教論に近い。

だからこそ基軸になっているテーマは、「救い」と「祈り」だと思っています。だから、そこにフォーカスせざるを得なかったというのは、宇多田ヒカルさんの曲を深く聴いている人もきっと気付いているはず。

杉田 そうですね。ある人がツイッターで本の感想を書いてくれたのですが、「この本は当たり前のことばかり書かれている、それがかえっていい」と。

宇多田ヒカルという人を聴き続けてきた人ならば誰でも普通によく知っていることだけれども、これまであまりちゃんと言葉にはされてこなかった、そういうことを僕の今回の本では言葉にしているだけなのかもしれません。