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週刊現代

『騎士団長殺し』は歴史に残る名著!読書のプロ・佐藤優はこう読んだ

ビジネスパーソンも必読

「イデア」という存在

村上春樹氏の新作『騎士団長殺し』は、刊行されたばかりであるが、名著として歴史に残ることは確実な作品だ。しかも、世界に通用する普遍的な事柄を扱っている。それだから、国際ビジネスの第一線で働く人にも是非手にとってもらいたい。

本書を含め村上氏の作品は、複数の異なった読み解きが可能だ。ちなみに読者から、この小説を読む楽しみを奪ってはならないので、ネタバレになるようなことは、ここでは一切書かない。

肖像画家の「私」が、「騎士団長殺し」と題された日本画に描かれた騎士団長の形をとったイデアとさまざまなコミュニケーションを取りながら、危機からの脱出を試みる。そこにかつてインサイダー取引で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕されたが無罪を勝ち取った富裕層の免色渉という人物、美しい女子中学生などが魅力的な役回りを演じている。

「私」は、「でも目に見えることだけが現実だとは限らない。そうじゃありませんか?」と問いかけていることからも明らかなように、目に見えない現実が存在することも信じている。

古代ギリシャのプラトン以来、西洋哲学には目には見えないが確実に存在する「イデア」という考え方がある。現在も世界の主流を占めるものの見方・考え方であるイデアを、村上氏は日本人に理解可能な言葉で説明している。

 

例えば主人公(私)と騎士団長による以下のやりとりだ。

<「つまり他者による認識のないところにイデアは存在し得ない」

騎士団長は右手の人差し指を空中にあげ、片目をつぶった。「そこから諸君はどのように類推をおこなうかね?」

私は類推をおこなった。少し時間はかかったが、騎士団長は我慢強く待っていた。

「ぼくが思うに」と私は言った。

「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在している」

「そのとおり」と騎士団長は言った。そして何度か肯いた。「なかなかわかりがよろしい。イデアは他者による認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ」

「じゃあもしぼくが『騎士団長は存在しない』と思ってしまえば、あなたはもう存在しないわけだ」

「理論的には」と騎士団長は言った。「しかしそれはあくまで理論上のことである。現実にはそれは現実的ではあらない。なぜならば、人が何かを考えるのをやめようと思って、考えるのをやめることは、ほとんど不可能だからだ。何かを考えるのをやめようと考えるのも考えのひとつであって、その考えを持っている限り、その何かもまた考えられているからだ。何かを考えるのをやめるためには、それをやめようと考えること自体をやめなくてはならない」>

イデアはそれ自身で自立しているものではない。他者とのコミュニケーションが、イデアが存在するためには不可欠なのだ。

「不可能の可能性」に挑む

哲学者の柄谷行人氏は、

<私の定義では、他者とは、ヴィトゲンシュタインの言い方でいえば、言語ゲームを共有しない者のことです。彼はその例として、しばしば外国人をあげていますが、精神異常者をあげてもよい。 確かに、彼らとの間に合意が成立することは困難です。しかし、まったく不可能ではない。ここで、それがまったく不可能な他者を考えてみましょう。それは死者であり、いまだ生まれざる者です。生きている他者とであれば、いかに文化が異なり、あるいはいくら正気からかけ離れているとしても、なんらかの合意に至ることがありえないことではない。他方、死者や生まれざる者とは、そのようなことは不可能なのです>(『柄谷行人講演集成1995―2015 思想的地震』ちくま学芸文庫、2017年)と指摘する。

死者や生まれざる者との対話という「不可能の可能性」に挑むことが、過去と未来の歴史に対して責任を負うことと柄谷氏は考えているが、村上氏もこれと同じ事柄をこの小説で展開している。