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ライフ 週刊現代

60点主義で速決、他者と比較するな…元東芝会長の謹厳実直な生き様

彼なら現状をどう打破しただろうか

経団連会長を務めた男が、夕食にめざしをかじる――国民は、テレビに映ったその姿に驚き、そして、親しみを感じた。謹厳実直に生きた名経営者の生き様とは。

朝4時に起きて木魚を叩く

山岡淳一郎(以下、山岡) 原発事業で約7000億円の損失が明らかとなった東芝は、いま進退に窮しています。皮肉なことですが、この原発部門は、元東芝会長で、戦後日本有数の経営者である土光敏夫さんが力を入れていた分野でした。

志村嘉一郎(以下、志村) 土光さんがいまの惨状を見たら「現場を見ろ!」と言ったに違いありません。いまこそ土光さんの精神を学び直す時だと思います。

山岡 土光さんは石川島播磨重工業社長、東芝社長などを経て、日本経済団体連合会(経団連)会長、第二次臨時行政調査会(第二臨調)会長を務めた、昭和を代表する大物財界人ですね。食事を含め、その質素な生活ぶりから「めざしの土光さん」とも呼ばれました。

志村 僕は駆け出し記者だった'71年、東芝社長時代に初めてお会いした。当時、土光さんは朝4時起床。30分ほど木魚を叩きながら読経をし、土光さんのため特別に早く配達された全国紙すべてに目を通し、6時には家を出る。誰よりも早く出社していました。

居林次雄(以下、居林) 私は土光さんが経団連会長時代に7年間秘書を務めましたが、あの袖口がほつれた背広や穴のあいた靴を初めて見たときは、「この身なりは会長にふさわしくない」と思いましたね(笑)。

山岡 いったいどうやってそんな傑物が出てきたのか。土光さんは、岡山県の生まれです。

志村 子供の頃から勤勉だったみたいですね。家業の手伝いで、掘割に沿って舟を引き、市の中心部まで荷物を運ぶ間も歩きながら読書をしていたそうです。

山岡 高校を出て東京高等工業学校(現・東京工業大)に進学。卒業後は東京石川島造船所に入りました。発電機などに使うタービンやジェットエンジンの開発に携わるエンジニアとして働き、'46年に石川島芝浦タービンの社長となる。ここから土光さんの「経営者人生」が始まります。

 

根っからのエンジニア

志村 当時からなんでも自分でやる人だったみたいですよ。銀行が融資を渋ることがあると、駅弁を買い込んで銀行の担当者のもとに乗り込み、それを食べながら何時間も粘って融資を勝ち取ったそうです(笑)。

山岡 それはすごい(笑)。その後、'50年には本社の石川島重工業の社長に就任し、ブラジルに子会社をつくったりと成果を挙げます。

志村 '60年には石川島が播磨造船所と合併しますが、誰よりも先に播磨に乗り込んで、社内、造船の現場をチェックしたと言っていました。

居林 根っからのエンジニアですから、なんでも自分で見て、納得しておかないと気が済まないんでしょう。

志村 そう。土光さんの行動には、エンジニアとしての性格が大きく関わっていると思う。臨調で有名になりましたが、徹底的に無駄を削る「合理化」もその一環でしょう。石川島播磨重工業の社長時代は、自ら社員の交際費の伝票を一枚ずつチェックして、無駄なカネを遣った人間に「これはなんだ」と聞いた。みんな震えあがってね。