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思想 天皇制

誰も言わない、近代日本と天皇制が抱えつづける根深い「矛盾」

たそがれる国家(5)

古来、統治者に求められたこと

国家は必然性があって生まれたものなのかと問われれば、私は「必然性はない」と答えるほかない。

ところが私たちは国家が存在することを前提にして暮らしている。

そういうシステムが国内的にも、対外的にも形成されている。国家が存在することを前提とするシステムに飲み込まれて暮らしているのだから、国家のない生き方は想定できないのである。

こうして、必然的に、国家は必要なものとして君臨することになる。

私たちの周りには、何らかの必然性があってつくられたのではないにもかかわらず、偶然それが生まれ、事実が積み上がっていくことによってそれから逃れられなくなってしまったものがいっぱいある。

たとえば携帯やスマートフォン、パソコンやインターネットもそうで、コンピュータは元々はミサイルの弾道計算を素早くするためにつくられた軍事技術だった。当時の世界情勢という偶然性がその開発を促したのである。

ところがその技術が産業用に応用され、つづいて個人の仕事や生活レベルにまで浸透してくると、私たちはそれを使わざるをえなくなった。

携帯もパソコンもなかった50年くらい前までは、それがなくても全く困らなかったばかりでなく、そういうものが誕生することさえ想定できなかったのだが、今日の私たちはそれらを必要なものとするシステムのなかに飲み込まれ、そこに必然的な進化があったかのごとく生き方を強いられている。

日本に最初の国家のかたちが生まれるのは、600年代の律令制の確立期だった。その前にも豪族社会のようなものは存在したが、この頃から日本という国家の形成がはじまる。

それは必然性があってつくられたものではなく、当時の朝鮮や中国との関係を背後にもちながら、大王を軸にした国家をつくろうとした勢力が存在したということにすぎなかった。

だから支配権力を確立した者たちは、自分たちの権力の正統性の確立に苦慮することになった。

力があったから大王になったというだけなら、力がなくなればその王朝は倒されてもよいということになる。実際には王朝の成立はそういうものにすぎないのだが、支配者としてはそれでは困るのである。

何らかの必然性があって王朝や大王が生まれ、その統治は正統なものであるというかたちをとらなければ、その王朝は存続する根拠をもたない。つまり、自己の正統性を説明、証明しなければならないのである。

古事記と日本書紀が編まれた理由

この問題から政治が自由になったのは、選挙制度が施行されて以降だった。

選挙によった統治者が生まれるのなら、その政権は自己の正統性を説明、証明する必要はない。国民が選んだのだからということによって証明済みなのである。

ところがそれ以前の社会ではそうはいかなかった。力で権力を確立したというだけならその王は覇王にすぎない。権力を握ったものに必要なことは、自己は覇王ではなく、何らかの必然性をもって登場した大王だということの説明、証明である。

律令制国家をつくっていった古代王朝にとってその方法は、歴史書の編纂であった。歴史書を編纂することによって、歴史を紐解いていけば自分が大王である社会が正統性をもつ、という証明の仕方である。

現存する最古の歴史書は『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)であるが、その前にも別の歴史書がつくられていたようだ。ちなみに『古事記』は国内用、『日本書紀』は対外用の歴史書として編纂された。

この二書は文学的にもおもしろく、私の好きな本でもあるのだが、編纂した人たちの意図ははっきりしている。神代の神話をつくりだすことによって、大王の正統性を証明しようとしたのである。