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美術・建築 ライフ
東京の「中心」と「境界」を考え抜いて見えてきたこの街の性格
新宿、千住、両国…

再注目される「東京東側」

東京の東側への注目が増している。

たとえば現在注目を集めているのはセンシュアス・シティ(官能都市)という指標だ。共同体への帰属感、ロマンス、種々の文化など、都市における身体的経験の質に注目したものだ。

センシュアス・シティの全国ランキングでは、文京区(1位)や台東区(6位)が、港区(10位)・千代田区(11位)・渋谷区(15位)よりも上位を占めている。荒川区(16位)が世田谷区(33位)や横浜市港北区(36位)を大きく引き離しているのも面白い。

東京東側の社会文化を論じた著作も数多い。近年に限っても、都築響一『東京右半分』が視覚的にも分かりやすく東側の固有性を示し、速水健朗『東京β――更新され続ける都市の物語』『東京どこに住む?』、三浦展『スカイツリー 東京下町散歩』といった著作が、東京東側にあらためて光をあててきた。

こうした東側への再注目を踏まえると、東京の「中心」と「境界」はどのあたりになるのだろうか。

これまで「住みたい街ランキング」で上位であった吉祥寺・目黒・自由が丘などを念頭に置けば、新宿や渋谷が中心になるだろう。

他方、古くから東京に暮らしてきた人から見れば、もっと東側に中心があると思うだろうし、そもそも吉祥寺・目黒・自由が丘あたりは東京ではないといった感覚があるかもしれない。

現在、東京の人口は1300万人超。近県を合わせた東京都市圏では3700万人を数える。日本人の十分の一は東京に住み、三分の一は東京都市圏に住んでいる。筆者の知人には、地方に行った際、「東京の千葉から来ました」と自己紹介する人もいる。

世界有数の大都市の中心と境界を考えるのは難しい。とはいえ、それを考えることで、東京という街の性格が垣間見えてくる。ここでは江戸東京の寺社に注目して、東京の歴史的な境界をあぶり出してみよう。

 

西端の街・新宿

江戸東京は東から西へと拡大してきた街だ。

朱引(しゅびき)という言葉がある。幕府が地図上に江戸の範囲を赤い線で囲って示したものだ。朱引の範囲は時代と共に変化するが、東は隅田川東岸、西は東中野・代々木、南は品川、北は千住・飛鳥山・板橋あたりになる。現在、一般的に東京としてイメージされる範囲よりも、だいぶ東に偏っているだろう。

旧江戸朱引内図

目黒あたりは朱引の外にあり、将軍が鷹狩りをする場所だった。中野や戸田も同じように鷹場であった。こうした朱引外に新住民を収容してゆくプロセスが、おおざっぱに見た江戸東京の歴史である。

このように考えると、江戸東京の西端は、西への拡大の基点になった新宿としても良いかもしれない。

新宿が街として拓かれたのは17世紀末。それまで甲州街道の最初の宿場は高井戸だったが、日本橋から約15kmもあった。通常の倍の距離だ。新宿を最初の宿場にするよう幕府に訴えたのは浅草商人だった。すでに経済的に飽和状態にあった浅草に対し、新宿を行楽地として拓き、新たに利益を上げようとしたと言われている。

そんな新宿の総鎮守が花園神社である。年末の酉の市を思い浮かべる人も多いだろう。酉の市は、日本武尊が東征の帰りに行った戦勝のお礼参りにさかのぼとされる祭りだ。花園神社には大鳥神社が合祀されており、毎年60万人もの人々が訪れる。場所柄、飲食店経営者や芸能関係者などが商売繁盛の熊手を求めて集まるのだ。

しかし、明治初期まで大鳥神社は見る影もなかったようだ。1879年、風雨で大破していた大鳥神社を近隣住民が建て直し、浅草の鷲(おおとり)神社を真似て酉の市が開かれた。花園神社自体が場末の鎮守といった風情だったのだろう。大きな展開を見せるのは、戦後になって新宿が発展してからなのである。