〔イラスト〕吉田愛
芸能
亡き勘三郎さんからの「贈り物」〜消えることのない足跡と記憶
とにかく一度、劇場へ

生きること・演じること

今年6月、名古屋に平成中村座が帰ってくる。

平成中村座は、2012年に惜しまれつつ亡くなった十八代目中村勘三郎が、唐十郎の赤テントや四国の金丸座に刺激を受け、自ら構想を立て、実現させた芝居小屋である。

勘三郎が亡き後も、その志を継いで、浅草、大阪、NYで公演を行ってきた。名古屋では2009年以来、8年ぶり2度めの公演になる。

観劇すれば、舞台と客席の距離の近さを実感するはずだ。椅子席のほかに、座布団の席があり、舞台も花道もそこにいる役者も、触れそうなほどの臨場感である。

江戸歌舞伎は、初代・猿若勘三郎が現在の京橋あたりに初めての常設の劇場である猿若座を開いたことがはじまりとされている。天保年間の芝居小屋の息づかいを、平成の今、感じることができる空間が、平成中村座というわけだ。

奇しくも、今年2月、歌舞伎座では江戸歌舞伎三百九十年ということで『猿若祭二月大歌舞伎』が、池袋の芸術劇場ではNODA・MAPの公演『足跡姫 時代錯誤冬幽霊(あしあとひめ ときあやまってふゆのゆうれい)』が上演された。その中心にいるのも、中村勘三郎その人である。

* * *

『足跡姫』の主人公は、三・四代目出雲阿国(宮澤りえ)とさびしがり屋サルワカ(妻夫木聡)。

歌舞伎の歴史をひもとくと、始まりは出雲阿国が踊った「かぶき踊り」だと言われている。阿国を真似た女歌舞伎が大流行すると、幕府は風俗を乱すとこれを禁じた。代って登場したのが前髪姿の美少年たちによる若衆歌舞伎であり、これも禁じられると男性ばかりの野郎歌舞伎へと移り変わっていった。

『足跡姫』では、こうした歴史的な背景を踏まえながら、歌舞伎誕生の胎動を、お上を向こうに回して躍動するかぶき者たちの物語として縦横に描き出す。

「踊るときに、私をぐわあっと突き動かしているものを見せたい」という阿国のせりふが、生きること、演じることの核心として舞台を貫いていく。

上演にあたって、野田秀樹はこの作品が盟友・中村勘三郎へのオマージュであることを直筆のメッセージで告知していたけれど、時をさかのぼり、歌舞伎の始まり、中村屋の始まりを描いてみせた。

「阿国歌舞伎図」にも描かれた猿若舞の名手・猿若勘三郎とは、初代の中村勘三郎のことである。勘三郎へのオマージュで初代を主人公に持ってくるとは、その直裁さにまず胸打たれた。

しかも芸術劇場に、いつもはない花道があり、すっぽんがあり、まわり舞台があって、歌舞伎小屋になっている。幕が上がれば、そこには『研辰(とぎたつ)の討たれ』や『野田版 鼠小僧』という、このふたりが組んで上演した芝居のかけらがいくつも散りばめられていた。

とりわけ『研辰』でも使われたマスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」が流れた時には、勘三郎演じる研辰の「死にたくねえ、生きてえ」という声が思い出されて、ああ、この舞台はあの舞台と繋がっているのか、「死にたくねえ、生きてえ」と思いながら逝ったであろうあの人の魂を「まだ続きがあるんだ。もう一度、ここに戻ってこい」と呼んでいるようだと思ったら、もう、たまらなかった。

 

満開の桜を描いた幕で始まって、満開の桜で終わるところも、いつかふたりがやるはずだった『贋作桜の森の満開の下』を思い起こさせる。

『贋作桜の森の満開の下』の幕切れ、夜長姫を手にかけ、ひとり遺された耳男は、それでも姫の声が聴こえた気がして、こう言うのだ。

「この桜の下から、どこにも参らず、どこにでも参れるおまじない」

深読みを承知で言わせてもらうなら、そんなおまじないがこの世にあるとしたら、それこそが舞台というものじゃないだろうか。だって劇場で、私たちは「どこにも参らず」「どこにでも参れる」のだから。

勘三郎さんがそこにいる!

『足跡姫』は、亡き勘三郎へのまぎれもないラブレターであり、同時に、夢の遊眠社から続く野田秀樹の足跡をそこここに感じる作品でもある。

幕が開けば、ふたりの舞台を観てきた観客なら、二重写しによみがえってくるものがいくつもあるだろう。それは、一期一会で消えてしまうはずの舞台を観てきた者だけが、記憶の中にしまってある宝物だ。

あの時のあの舞台を観た、この舞台に震えた、まるで消えない足跡のように刻印されたその記憶が、否応なしに次々とよみがえってくる。

ああ、これが「舞台を観る」ということかとあらためて思う。

たとえその人が逝ってしまったとしても、いい芝居を観た時の感動は、決して消えることがない。足跡は、ほかでもない、観る者それぞれの胸の内にあるのだ。