芸術

なぜ音楽の「天才」は東京藝大を頂点とする秩序から排除されるのか

話題の小説が意図せずに告発!?
中川 右介 プロフィール
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ここで思い出すのは、10年ほど前、ドラマ化、アニメ化もされてブームになったコミックの二ノ宮知子著『のだめカンタービレ』(講談社)だ。

ブームになると、クラシック音楽業界は商機ととらえて飛びついて、一緒に盛り上げた。

あのとき、クラシック音楽業界は『のだめカンタービレ』を喜んで受け入れた。それは、あのコミックの主人公たちが、かなりの「変人」ではあるが、音大というシステムの内側にいる者だったからだ。

東京藝大を頂点とする日本のクラシック音楽業界の秩序を脅かすものではなかったのだ。

だが『蜜蜂と遠雷』は危険な小説である。東京藝大というシステムの無意味さを、著者が意識していないとしても、告発してしまっている。

だから、面白い。

このように『蜜蜂と遠雷』は音楽教育業界にとって危険な小説だから、拒絶反応もあるだろう。

といって、正面からは批判しにくいので、「こんな漫画みたいな主人公はいない」とか「演奏の描写が素人っぽい」という、そういうテクニカルな面での批判になる。

天才を排除してしまうシステム

『蜜蜂と遠雷』の危険性を逆説的に証明しているのが、二宮敦人著『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』(新潮社)だ。

こちらはタイトルがまがまがしいが、ノンフィクション。

著者の二宮敦人は小説家。妻が現役の藝大の美術学部生で、彼女から聞く藝大生の話が信じられないようなエピソードが多いので興味を抱いて、取材して書かれたもの。現役の学生にインタビューした内容が中心の本だ。

東京藝術大学は唯一の国立の藝術大学で、美術学部と音楽学部とがある。この二つはもとは別の大学だったが、戦後、ひとつになった。この本では美術の学生と、音楽の学生の双方が、均等に描かれている。

帯には〈謎に満ちた「芸術界の東大」に潜入した前人未到、抱腹絶倒の体験記〉〈やはり彼らは只者ではなかった。〉とあり、奇人変人ものの装いをしている。

その奇人変人ぶりは、美術学部の学生のほうに多く、音楽学部学生は、口笛の専門家という変わった学生も出てくるが、親に言われて子供の頃からピアノを習っていて、頂点である最難関の東京藝大に入りました、という従来のイメージの学生が多い。

そういう子供の頃からピアノを習っている人たちは、「一般庶民とは別世界に住んでいる」という点では変わっているが、残念ながら、『蜜蜂と遠雷』の主人公のような天才性も奇抜さもない。

奇人変人度では、美術学部の学生に圧倒的に負けてしまう。

 

この本は、「東京藝大」全体をテーマにしているので、量的に美術と音楽が均等になっているが、読んで印象に残るのは美術学部生の話のほうだ。

美術学部生は誰もが、どこかしら「奇人変人」なのに、音楽学部生は、根本的なところでは一般社会からズレているものの、性格や人格には破綻はなく、あまり面白くない。

東京藝大の音楽学部からは秀才しか生まれないんだなあ、いやその逆で、天才は排除されて秀才しか入れない藝術大学なんだなという、音楽業界で言われていることの再確認をした。

現実の音楽の天才とは?

ここで改めて『蜜蜂と遠雷』を思い出す。

『蜜蜂と遠雷』の主人公たちは、この日本音楽界の頂点である東京藝大とは無縁だ。

つまり、この小説からこんな世界観が読み取れる。

〈破天荒な天才は、ピアノ教室を底辺とし東京藝大を頂点とするシステムからは排除される。しかし、真の天才は、分かる人には分かるので、何らかの方法で世に出て、秀才たちを打ち負かす。〉

一生懸命にピアノを習い、頂点である東京藝大に入れた人も、東京藝大には入れなかったけど他の音大に入った人も、藝大・音大を目指している人も、みんな天才の引き立て役でしかないのだ。

では、現実の音楽の世界での天才たちとは、どういう人なのか。

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