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哲学

考えてみたい「今」と「私」の謎~二つの矛盾からこの世界ははじまる

「時間の非実在性」を解く

「存在しない問い」の存在

他人には意識があるかどうかはわからないから、他人はひょっとすると(意識がない人をゾンビと呼ぶなら)ゾンビかもしれない。そうではないことを確かめる方法は存在しないのに、それでもわれわれが他人はゾンビではないと信じて疑わないのはなぜか。これは哲学の世界で他我問題といわれる問題である。

それはそれで、けっして無意味な議論ではないだろう。しかし、少なくとも私自身は、そんな問題を自ら感じたことは一度もない。私が幼少期から感じていたのは、一見それと似ているが実はまったく違う疑問――同じ人間のなかに、大多数の普通の人たちと並んで、私であるというあり方をしたやつが一人だけ存在している、こいつは何なのか(この違いはいったい何に由来しているのか)、そしてなぜ20世紀の日本に生まれた永井均というやつがそれなのか、という疑問であった。

たとえ他人たちがゾンビでないことが完璧に証明されたとしても、この疑問は深まりこそすれ治まりはしない。

だが、さらに驚くべきことに、この問いは実はそもそも立てることができない問いなのである。なぜなら、この意味での私(であるという特殊なあり方をしたやつ)は実在しないからである。

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そういうやつが実在することを、もし私が問おうとすれば、私は永井均の存在を問うか、一般的な(超越論的)自我の存在を問うか、どちらかしかできない。言語を使ってこの問いを立てる方法は存在しないのである。なぜなら、言語は自他に共通の存在者の存在を起点として初めて成り立つ、世界が本質的に一枚の絵に描けることを前提にした世界把握の方法だからである。

私の問いはそれに起点から異を唱えている。言語的世界像を前提する限り、この問いはそもそも存在できない。ウィトゲンシュタインはこのことを「独我論は語りえない」と表現した。

 

すでに40年近く、私はこの問題について論じてきた。そして20年ほど前から、同じ問題が〈私〉だけでなく〈今〉についても成り立つと論じてきた。このことを史上初めて主張したのが、1908年に書かれたJ・E・マクタガートの「時間の非実在性」である。

つまり、彼はウィトゲンシュタインが「独我論は語りえない」と表現したのと同じ論点を「時間は実在しない」と表現したわけである。さほど長くもない一論文にすぎないが、今回の翻訳出版(『時間の非実在性』講談社学術文庫)にあたって、私は原論文の数倍の長さにわたる、この解釈視点からの解説的論評を付した。

実在の謎

他我問題と全く同様、時間に関しても、過去や未来は実在すると(なぜ)言えるのか、といった系統の問題は存在する。

当然のことながら、マクタガートの問題はその種のものとは全く違う。彼の問いの根底には、この今という特殊なものが現に存在しているという驚きがある。この今がもし存在しなければ、すべては存在しないのと同じことだろう。

存在する(かもしれない)世界はそもそも開かれないからだ。それほど重大な位置を占めるものでありながら、これもまた実在しない。言語によってそれを捉える方法がないからである(この意味では感性(パトス)もまた言語(ロゴス)だから感性によっても)。

この今(という特殊なあり方をした時点)が実在することを語ろうとすれば、ある特定の時点の存在か、一般的な現在性(いかなる時点もその時点にとっては今であること)の存在か、どちらかを語ることしかできない。

さてしかし、まさにそのことを、私は今、共感をあてにして未来の他者に向かって書いている。そして、この伝達が成功して、未来の他者が、つまりあなたが、今私が言っていることに賛同することがありうるだろう。

世界が一枚の絵に描けることを前提にした言語的世界把握が作動したのである。そして時間の場合は、今は現実に動くので、この問題は今の動き(=時間の経過)そのものの問題と重なる。

では、端的な今(どの時点もその時点にとっては今であるという意味での今ではなく)や端的な私(どの人もその人にとっては私であるという意味での私ではなく)は実在するだろうか。そして前者に関しては、それが動くという事実は現実に存在するだろうか。するともしないとも言えるのでなければならない。

われわれはこの二つの矛盾する世界像を現に併用しているからである。すべてはこの矛盾から始まっているという現実を、ぜひ自ら実感していただきたいと思う。

読書人の雑誌「本」2017年3月号より