Photo by iStock
野球

大下剛史に聞く(4)1991年、広島はなぜ日本シリーズで敗れたか

鬼軍曹の野球哲学

昨年(2016)、25年ぶりにリーグ優勝を果たした広島カープ。この優勝を1975年の初優勝に重ねる向きも多い。41年前、不動のリードオフマンとしてチームを牽引したのが大下剛史氏。“暴れん坊軍団”と呼ばれた東映では切り込み隊長として活躍した選手だ。 彼はどのようにして広島を変えたのか。当時を洗いざらい語ってもらった。(その3はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50792

なぜ川口を使ったのか

二宮 現役引退後、大下さんは1979年から81年までは二軍守備走塁、82年から83年までは一軍守備走塁、89年から91年まで一軍ヘッド、99年にも一軍ヘッドと広島のコーチを歴任しました。この間3回のリーグ優勝と2回の日本一に貢献しています。

個人的に印象に残っているのは91年の日本シリーズです。相手は西武でした。3勝2敗で迎えた西武球場での第6戦。1対1の同点でゲームは6回裏まで進みました。二死満塁の場面で山本浩二監督は、第5戦に8回104球を投げて勝利投手となったばかり、中一日の川口和久をリリーフに送りました。

結局、この継投は失敗に終わりました。代打の鈴木康友にレフト前に弾き返され、1対3に。このゲームを1対6で落とした広島は、第7戦にも敗れ、7年ぶりの日本一はなりませんでした。

これは結果論かもしれませんが、あそこで川口を無理させる必要があったのか……。

 

大下 当時は日本シリーズも予告先発制じゃないからね。僕は第7戦で左の川口か右のピッチャーか、相手からすればどっちがくるかわからんような作戦を描いていた。

ところが、あのピンチの場面、浩二がどうしても川口で行きたがるのよ。僕は、「川口は明日でしょう」と返した。しかし、「行きたい。今日で決着を付ける」と言ってきかない。

いくら僕がヘッドやと言うても、最後に決めるのは監督だからね。「よしわかった。あんたがそこまで言うなら、そうしよう」と……。確かに、あそこが勝負の分岐点だったね。

二宮 当時の抑えは大野豊。あとで浩二さんは「大野でよかったかもしれない」と言っていました。

大下 僕はこのシーズン限りで広島を辞めた。翌年の春、西武のキャンプを見に行ったら、監督の森祇晶さんから言われたよ。「剛史、おまえともあろうものが、なんであそこで川口を使うんや」と。それで、「いや、僕は翌日にとっておきたかったんだけど、監督が“どうしても使いたい”と言うてきかんかったのよ」と正直に答えたら苦笑いしとったね。

二宮 シーズン限りでユニホームを脱ぐことは、早くから決めていたんですか?

大下 勝負というものは、諦めたらダメやね。最後の試合は7回終了時点で大差(1対7)がついたものだから、いろいろなピッチャーを投げさせた。

打たれた北別府学や川端順らは、僕がやめるのを知っているから「すみません、大下さん」と言うて謝るのよ。これはつらかったね。やはり勝負ごとちゅうのは勝って終わらんといかんね。

忘れられない津田離脱の日

二宮 91年と言えば4月にクローザー津田恒実の離脱もありました。それにより、「津田のために」とチーム一丸となったという話もよく聞きます。

大下 あれは忘れもしない4月14日。広島市民球場での巨人戦よ。津田は1点リードの8回に北別府のリリーフに出ていった。ところが、わずか9球でKOされてしまった。

ゲームが終わった後、投手コーチの池谷公二郎から「ツネがわんわん泣いとるんです」という報告が入った。それで「どうしたんや、ツネ?」と聞くと、またワーッと泣くわけ。それで「とにかく早く帰れ」と家に帰した。まさか、そのまま、帰ってこれんとは……。

二宮 91年のシーズンは大野と津田の“ダブルストッパー”が売りでした。

大下 前年のシーズンオフ、来年のキャッチフレーズを考えている時に、不意に浮かんだのが、“ダブルストッパー”やった。これを来年の“売り”にしようと。

というのも、当時の広島は打線が弱かった。点が取れんのやから、守って勝つしかない。1点差でいいから逃げ切ろうと。その象徴が“ダブルストッパー”やったんです。

二宮 しかし、津田の離脱により、その構想は早々と崩れてしまう。ベンチは大変だったでしょうね。