〔PHOTO〕iStock
歴史 カルチャー レジャー

徳川将軍家の聖地はどうして「花見の名所」になったのか

桜の樹の下の東京案内

将軍家の聖地・寛永寺

桜の樹の下には「東京の歴史」が埋まっている。

お花見の前後、足元にも目を向けてみてはどうだろうか。

〔PHOTO〕iStock

上野公園は毎年200万人が訪れる東京屈指のお花見スポットだ。博物館や美術館も集められ、花見以外の時期にも人出は絶えない。上野がこうした文化的発信地になった理由の一つは、江戸時代、上野の山全体が聖地だったことにある。

上野公園から谷中方面に向かう途中に寛永寺がある。徳川綱吉や吉宗をはじめ6人の将軍が葬られた寛永寺は、かつて徳川将軍家の聖地であった。そしてそのために、今からおよそ150年前、上野は午前中だけの戦場になった。

1868年5月15日、後に近代日本彫刻の先駆者となる高村光雲(1852~1934)は、上野の戦場に向けて走っていた。光雲の証言を元に当日の出来事を少しふりかえってみよう(以下、高村光雲『幕末維新懐古談』より)。

 

長く続いた雨のせいで道は川のようになっていた。17歳の光雲は駒形に住む師匠の下で修業の身だ。前日、出入りの職人から「まもなく上野で戦争が始まる」という噂を聞かされた。上野には師匠の弟弟子の半次郎が住んでいた。翌日の夜明け、光雲は師匠の命で半次郎に戦争の噂を告げに向かったのだ。

途中、抜き身の槍を持った武士に呼び止められて尋問された。御徒町方面から半次郎の家に近づくと、耳元で「シュッシュッ」と異様な音がした。飛び交う弾丸の音だ。

上野で戦ったのは、大村益次郎が率いる維新軍と旧幕府側の彰義隊(しょうぎたい)である。彰義隊が結成された時、徳川慶喜はすでに寛永寺に蟄居していた。敗色濃厚というよりも、幕府の負けは決まっていた。

それでも「薩賊」に一矢報いようと、渋沢成一郎を頭取、天野八郎を副頭取に旧幕臣・侠客・町人たちが集まった。諸藩の兵も加わり、数千人に膨らんだという。

勝海舟など旧幕府側の指導者たちは、江戸市中取締などの役目を与えて彰義隊をなだめ、武装解除するよう勧告したが従わず、結局、徳川聖地・寛永寺で両軍が衝突したのである。

上野に集まった宗教文化

維新前の寛永寺は、今からは想像もできないほど大きかった。創建したのは、初期江戸幕府のブレーンの天海僧正(1536?~1643)である。江戸を宗教的に守護するために、1625年、鬼門にあたる上野の山に寛永寺を築いたのだ。

東叡山という山号の通り、寛永寺は比叡山を模してデザインされた。寺の名が元号なのも、延暦寺にならったものだ。根本中堂や釈迦堂も比叡山がモデルだ。清水観音堂・祇園堂・大仏なども造られ、京・奈良・近江の宗教文化が上野山内に集められた。そして、その一環で吉野から桜が移植されたのである。

最盛期には境内の広さは30万坪を超え、大名に匹敵する1万2000石の寺領が与えられた。現在の中央通りと不忍通りが交差するところに、寛永寺に入ってゆくための三つの橋があった。あんみつの名店「みはし」があるあたりだ。

公園前交番のところには二つの門――御成門(おなりもん)と黒門(くろもん)――があった。そこから伸びる道がかつての参道だ。現在、花見の時にもっとも賑わう道である。

根本中堂があったのは今の噴水広場だ。そして、東京国立博物館のところに本坊があった。その他、山内に36の子院があり、要するに、上野の山全体が寛永寺だったのである。