Photo by iStock
ロシア
ソ連とは何だったのか 〜中枢を生きた共産党ナンバー2が見た光景
ロシア革命から100年目の「真実」

1917年の革命で誕生し、1991年に崩壊したソビエト連邦。この74年間に失われた人命は、数千万以上になる。いまだに謎多き、この20世紀最大の政治事件の全貌とは?

熾烈な権力闘争、虐殺、陰謀……その中枢を生き抜いた男は何を見たのか? 話題書『ソビエト連邦史 1917-1991』より、一部を特別に紹介します。

ソビエト史を体現する人物

ソ連邦を作った革命家、政治家であるモロトフ首相兼外相(1890~1986)の孫、ニコノフ氏と会ったのは2001年12月26日、ソ連崩壊からちょうど10年目のことである。孫は祖父と同じビャチェスラフという名前だった。

面会した時、1956年生まれのニコノフ氏は著名な政治評論家となっていたが、ソ連崩壊の91年当時はソ連最後のKGB(国家保安委員会)議長バカーチンの補佐官であった。

祖父とは違ってロシア革命に対しては否定的で、自己を保守主義者と規定する孫ニコノフ氏は、一方で祖父の史料を集め、その評伝を書くのだとも言う。31歳で党書記となり、40歳で首相となった祖父と比較すると、「自分は遅れて来た」という感覚を持ったともニコノフ氏は述懐した。

ビャチェスラフ・モロトフとは、本名スクリャービン、ロシアの革命家であり、ソ連国家と共産党の創始者の一人である。

 

モロトフは、1906年にロシア社会民主労働党(ボリシェビキ、ボリシェビクは単数形)に入党、12年から「プラウダ紙」編集者としてボリシェビキ党の司令塔にいた。

十月革命(むしろ十月「転換」、つまり「ポボロート」というロシア語のほうが実態に近い)に参加、1921年に共産党中央委員会の政治局員となってから党内闘争で敗北する57年まで、政治局員としてつねにその中枢にあり続けた。

レーニンの側近であり、スターリンの右腕として1920年代の「党建設」と党内闘争、20年代末からの工業化、農業集団化、30年代の大粛清(チス・トカ)、30年代末からの戦争と外交を指導した。

スターリン(左)とモロトフ。1935年〔PHOTO〕gettyimages

なかでも1939年8月のモロトフ‐リッベントロップ協定から第二次世界大戦、独ソ戦、そしてヤルタ会談から冷戦へと至る過程は、この人物抜きに世界史の記述ができないほどだ。

冷戦期においては、スターリンとモロトフの関係は微妙で、最晩年のスターリンは彼を粛清することを考えた。事実、モロトフ夫人であるユダヤ系のポリーナ・ジェムチュジナは1948年のイスラエル建国後は女性政治犯収容所にあった。1953年3月に独裁者スターリンが死ぬと、夫人は釈放第一号となる。

だが、モロトフは1957年の反党グループ事件で政治局を追われモンゴル大使となり、61年の第二次スターリン批判で共産党から除名された。けれどもチェルネンコ時代の1984年に奇跡的に復党し、ゴルバチョフ期の86年11月、96歳で亡くなった。ちょうど69年前レーニンとともに権力を奪取した革命記念日のことであった。

モロトフは、死の直前にはゴルバチョフ書記長に会おうとしていたという。ソ連邦が崩壊する5年前に亡くなっているが、典型的な「ソビエト的人間」の生涯を送った人物だったと言えるだろう。