政治政策

石原慎太郎都政「問題だらけの8年」を再検証する

<「モノ言う知事」の品性と功罪>(前編)

ハチャメチャな都政私物化

ここにきて石原慎太郎・元東京都知事の周辺がにわかに騒がしくなってきた。問題が次々噴出する豊洲新市場の建設にゴーサインを出した責任者であることに加え、メディアの注目を一身にあつめる“小池劇場”効果によるものなのはあらためて記すまでもなく、大手週刊誌やテレビの情報番組なども石原都政の責任を問いはじめている(そのトーンは相変わらず生ぬるいが)。

率直に言って私は、何をいまさら……といった感慨を抱く。あるいは、ようやくか……という気分とも言える。

石原都政が問題だらけだったのは、当の石原氏が都知事在任中、ごく一部の新聞や雑誌が熱心に追及した。私も、その一人だった。半年ほどの集中取材を重ね、いまはなき『月刊現代』誌に連載ルポを発表したこともあった。その実態は、公私混同が徹底指弾された舛添要一・前都知事の所業が可愛く思えるほどハチャメチャな都政私物化だった。

なのに当時、大半の新聞、週刊誌、テレビは沈黙した。石原氏の威丈高で高圧的なメディア恫喝に怯えた面もあったろう。また、作家として大手出版社に大きな影響力を持っていたことは、普段は遠慮会釈ない筆鋒の週刊誌メディアを黙らせる遠因になった。

だが、もし当時、こうしたメディア群が石原都政をきちんと追及していれば、その都政が4期13年も継続することはなかったろう。畢竟、豊洲新市場問題がここまでこじれることはなかったかもしれない。少なくとも都が主導した新銀行プロジェクトなどで1000億円もの税金がドブに捨てられることはなく、石原氏の側近やファミリーが甘い汁をちゅうちゅうと吸い続けることもできなかった。沈黙したメディアの責任は重い。
 
とはいえ、いまからでも遅くはない。石原氏には、そのハチャメチャな都政私物化の責任をきっちりと取らせるべきだと私は思う。だから、『月刊現代』に私がかつて寄せた連載ルポを以下に再掲させていただく。

2007年4月号と5月号に掲載されたルポ<「モノ言う知事」の品性と功罪>は、石原都政が2期目から3期目に差しかかった時期の取材結果である。これをお読みいただければ、石原都政の問題点がどこにあり、それがいかに醜悪だったかが明白になる。豊洲新市場問題にまでは取材の手が回っていないが、その混乱の原因もぼんやりと浮かび上がってくるはずである。

(編集部注:文中敬称略、肩書は当時のものです)

時計の針を99年に戻す

大衆糾合に長けた憂国の政治家か、それとも都政を私物化する俗人なのか──。
 
4月8日投開票の東京都知事選を控え、都知事・石原慎太郎の周辺が騒がしい。税を喰いものにするがごとき豪華外遊や高額接待の実態が問題化し、芸術家だという四男と都政の不透明な関わりも発覚した。
 
批判を浴びている石原だが、2016年に東京オリンピックを招致するのが「私の責任」と訴えて3選出馬を早々に表明。選挙対策とも囁かれた先の東京マラソンについても、

「成功だった。素晴らしいお祭りを東京の伝統にしたい」
 
と自賛するなど意気軒昂に見える。民主党の対立候補擁立作業は混迷が続いており、このままいけば石原3選は確実な情勢だ。
 
だが、石原という政治家は、果たして日本の首都である東京都知事の座を引き続き委ねるのに相応しい人物なのか。
 
言うまでもなく石原は都知事である。とすれば、2期8年に及んだ石原都政の検証こそが石原慎太郎に3期目の都政を託すことの是非を浮かび上がらせる道のはずだ。石原は都知事として何をなし、何をなさなかったのか。石原が都知事となったことで何が起き、都庁は今、どうなっているのか。
 
本稿では、石原に目立つ差別的暴言の問題性やイデオロギー的な視点からの論評から敢えて離れ、石原都政の実相をリポートする。
 
まずは石原が推し進めて様々な波紋を巻き起こした主要施策のうち、銀行税、ディーゼル車規制(以上1期目)、新銀行と新大学の設立(以上2期目)などの功罪を検証するため、時計の針を1999年3月10日まで戻そう。
 
この日、石原は東京・内幸町の日本記者クラブで都知事選への出馬を正式表明している。

「石原裕次郎の兄でございます。都民や国民を代表して、一種の革命をやろうと思っています」
 
会見でそう切り出した石原は、中国を「支那(シナ)」と言い放って出席者の眉をひそめさせる一方、《東京が蘇るために──NOといえる東京》と題した政策資料を配布。都知事選に向けたスローガンは「東京から日本を変える」だった。
 
都知事選への出馬会見で「裕次郎の兄でございます」と言って恥じぬ石原の臆面のなさや厚顔ぶりをここでは問わない。毎度おなじみの差別的言辞が孕む醜悪さも同様だ。ただ、「東京から日本を変える」という勇ましきスローガンこそが都知事の座を目指した石原の心中を最大限に照射していたのは間違いない。
 
27年という長きにわたって永田町に生息した政治家・石原慎太郎だが、打算と深謀の渦巻く国政の場では結局のところ異端の座に終始し、ついに主流へと躍り出ることはできなかった。それは文芸評論家で盟友の故・江藤淳をして「政治家としても作家としても孜々として努めるというところの見えないアマチュア」と喝破させた石原の限界だったろう。

だが、そんな石原にとって「東京都知事」の座は自らが主役の暴れ舞台とするのに格好の玩具であり、都知事として「国」に波紋を巻き起こすことこそが出馬にあたっての最大の眼目だったはずだ。
 
それからちょうど1ヵ月後の都知事選で自民党推薦の元国連事務次長・明石康や民主党推薦の鳩山邦夫、あるいは国際政治学者の舛添要一といった並み居る対立候補を蹴散らして約166万票を獲得、当選を果たした石原は、都庁に乗り込むと「東京から日本を変える」とのスローガンに相応しい刺激的な狼煙を上げ始める。