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松方弘樹の「遺言」~病に倒れる直前に、彼はすべてを語っていた。
適わないと思うやつも、抱きたい女も

役者同士の魂の触れ合い、ぶつかり合いがあった。抱きたい女がいた。敵わないと思う奴がいた。すべてを語り尽くしていたのは松方なりに、これが最期だという予感があったのかもしれない――。

錦兄ィのそばにいたくて

〈映画界に入れてもらって半世紀以上が経って、どんどんどんどん映画が先細りというかジリ貧になっていくなか、映画がどうやって生き延びるのか――出口を見つけたいんです〉

1月21日に急逝した俳優・松方弘樹。脳リンパ腫という難病に伏せる2ヵ月前、実は彼は自らの思いを著書にまとめる準備をしていた。彼が人生の最後に心血を注いだ自伝『無冠の男 松方弘樹伝』(講談社)が2月8日に刊行される(〈 〉内は同書の引用)。

これは映画史研究家であり作家の伊藤彰彦氏との共著で、'15年10月から12月にかけて、合計3回、20時間にわたってのインタビューと、松方と関わりの深い人物への取材内容をまとめたものだ。松方が出版を心待ちにしながら、はからずも遺作となった同書には彼の人生と生き様が余すことなく記されている。

 

松方は1942年7月23日、東京市王子区王子(現・北区王子)に生まれた。父・近衛十四郎、母・水川八重子はともに人気役者で、松方が生まれると「近衛十四郎一座」を結成。全国津々浦々を巡業するなか、幼い松方は座員たちに育てられた。

〈移動、移動ですから。衣装や小道具を先に送って、五十人ぐらいの一座が夜行で移動するんです。(中略)

それから、父親と母親がヒロポンを打ってた。ヒロポンはそのころ非合法じゃなくて、薬局で売ってました。疲れた時に打つビタミン剤みたいなもんでしたからね。列車の中で父親と母親は、自分たちが打ったついでに僕にも打ったらしいんです。

小学校上がったばかりの子供にですよ(笑)。それで僕がイっちゃったらしいんです。「列車から飛び降りる!」ってスーパーマンみたいな格好したって(笑)〉

少年時代は歌手を夢見ていたが、父の「〝歌う映画スター〟ってぇのもいいぞ」という言葉に乗せられ、'60年に東映入りを果たす。俳優の道を歩み始めた松方の目標となったのは、中村錦之助(のちの萬屋錦之介)だった。

〈十代のころからずっと錦兄ィが憧れでした。もうこの人に勝る役者はいないくらいに思ってて、時間があれば錦兄ィのセットを見に行ってましたし、作品も全部見せてもらいました。錦兄ィって普段はものすごく声が高いんです。「オイッ!」ってものすごい甲高い声でしゃべる。けれどお芝居になるとまるでトーンが変わるんです。

セットで見てると、「あとからメシでも食いに行くか」って、錦兄ィに食事に連れて行ってもらうのがどんなに嬉しく、そばにいられることが楽しかったか〉

〝男高倉健〟は虚像です

'63年、高倉健・三田佳子の『暴力街』と鶴田浩二・佐久間良子の『人生劇場 飛車角』がヒットし「東映仁侠映画の時代」が始まる。松方は'71年に『現代やくざ 盃返します』で菅原文太と、『昭和残侠伝』シリーズの第8作で高倉健と共演。ともに佐伯清監督の作品だった。

〈佐伯(清)先生は僕を買ってくれて、『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』ですごくいい役をくださいましてね。僕も意気に感じて頑張ったんです。初号試写(完成後、スタッフが最初に観る上映会)の日、映画が終わって、場内が明るくなるとみんな手を叩いてくれて……ホッとしました。

すると健さんが、「弘樹ちゃん、よかったねぇ。女遊びすると、お芝居うまくなるんだね」とこう言ったんです。初号試写ですから撮影所長以下全部いるわけですよ。場内が静まり返りましてね。

そんななか、佐伯先生が、「高倉君、『弘樹ちゃんうまくなったねぇ』だけでいいんだよ。そのあとのセリフはいらないよ」ってパーンって言ってくださったんです。みんないる前でですよ。健さん主役ですよ。「キミ、器がちっちゃいねえ」って。