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『沈黙』のキリシタンは、結局なにを拝んでいたのか?

彼らが隠れて信仰を続けたワケ

「潜伏キリシタン」と「カクレキリシタン」

映画『沈黙-サイレンス-』は、遠藤周作の長編小説『沈黙』(1966年)を原作に、『タクシードライバー』『最後の誘惑』などを監督したマーティン・スコセッシが長年の構想を実現したものである。

台湾をロケ地に、日本人俳優として窪塚洋介をはじめ、浅野忠信やイッセー尾形が重要な役どころで出演しているこの映画は、殉教と棄教のダイナミックなドラマとして優れた出来栄えになっている。

その一方で、神社にも寺院にも参拝し、ハロウィンやクリスマスを楽しむ21世紀の日本人の宗教観と照らし合わせて観ることも可能だ。そのための予備知識としてキリシタン信仰の内実について紹介してみたい。

江戸時代初期のキリシタン弾圧下で、ポルトガル人の司祭ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が、日本での布教に尽力した恩師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が棄教した噂に聞き、それが真実か否かを確かめるため日本に向かう。そこで彼が見たキリシタンの殉教と、棄教への葛藤が描き出される。

豊臣秀吉によるバテレン追放令、江戸幕府による禁教令、さらに1637年の「島原の乱」を境にキリシタンに対する取り締まりが徹底されていった。日本国内にカトリックの司祭がいないという状況のもとで、キリシタンはキリスト教の信仰を捨てず、密かに伝えていったのである。そうしたキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼ぶ。

潜伏キリシタンの子孫で、禁教令が解かれた1873年以降もカトリックに改宗せず、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を維持し続けた人々を「カクレキリシタン」という。

潜伏キリシタンは邪教とされた自らの宗教を隠すための偽装もし、変形した信仰が伝えられたところから、"日本独自"のキリシタン信仰が生み出された。

遠藤の原作でもスコセッシの映画でも、潜伏キリシタンの死を恐れぬ信仰と、一方で彼らがキリスト教を誤解せずに信仰していたのか、ということが大きなテーマになっている。

 

宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像――日本人のキリスト教理解と受容』などによると、潜伏キリシタンの信仰は、「御前様(ごぜんさま)」と呼ばれる聖画像や宣教師の遺物などを納戸(なんど)の棚に祀って信仰する平戸・生月地方と、カトリックの教会暦(日繰帳)を信仰の中心とする外海地方・五島列島に分かれる。

遠藤周作は小説執筆の際、2つの地方を取材し、スコセッシも両地域の信仰形態を映画に取り入れているようである。

映画には登場しないが、潜伏キリシタンの信仰対象は「マリア観音」だろう。もともとは明朝時代の中国から舶来した白磁や青磁の「慈母観音像」で、明らかに仏教の尊像だったものが、子供を抱く姿形から「聖母マリア」として崇拝された。

マリア観音とは似て非なる信仰対象として、天草土人形の「山姥(やまんば)」も、マリア像として崇拝されることがあった。

天草土人形は江戸時代中期の享保年間(1716‒36)につくり始められた窯焼きの人形で、その山姥は長い髪に五彩の服を着て、豊満な胸を露わに子供を抱く(あるいは哺乳する)女性の姿をしたものだった。

ここでは全く宗教性を帯びない"郷土玩具"の土人形が宗教化されたのである。