格闘技
君はもう、『1984年のUWF』を読んだか?
発売即重版。話題の一冊を特別公開

「Number」連載時から話題沸騰、今年1月27日に単行本が発売されるや、即日1万部の重版が決まった『1984年のUWF』。日本の格闘技ブームの原点ともいうべき伝説の団体・UWFの誕生と崩壊までを、ノンフィクションライターの柳澤健氏が丹念に追った本書の冒頭部分を公開する。

前田日明、佐山聡、高田延彦、藤原良明ら名選手を擁しながら、短命に終わったUWF。彼らはいったい、何を生み出し、何を残し、何を間違えたのか――。

(3月2日木曜日に『真説・長州力』の著者・田崎健太氏とのトークイベントが実施されます。詳細はこちらから http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50888 )

中井くんの青春

北海道浜益郡浜益村(現・石狩市浜益区)は札幌からクルマで1時間30分、石狩湾北部の海沿いに位置する。

人口2000人ほどの小さな村には、中井くんという近所でも評判の賢い子供がいた。幼稚園の頃は、仮面ライダーストロンガーやウルトラマンレオになりきって遊んでいたが、小学校に入る頃、ヒーローごっこは突然終わった。お兄ちゃんと一緒にプロレスを見るようになったからだ。

おじいちゃんとおばあちゃんが大のプロレスファンだったから、その影響だろう。「力道山が亡くなったときにはふたりで泣いた」と聞いたことがある。

中井くんが小学校低学年だった1970年代後半、札幌近辺ではふたつのテレビ局がプロレス番組を放送していた。

土曜夜8時には、5チャンネルの札幌テレビが『全日本プロレス中継』を。金曜夜8時には、35 チャンネルの北海道テレビ放送が、新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』を。

中井くんが好きだったのは『全日本プロレス中継』だった。映像がきれいな上に、外国人レスラーも豪華でかっこよかったからだ。

1977年暮れのザ・ファンクス対アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの試合のことははっきりと覚えている。悪役ふたりがテリー・ファンクの右腕にフォークを突き刺して、大流血させた。クリスマスケーキを食べながら見ていたから、「このフォークで刺しているのかな?」と思った。

ジャイアント馬場は外国人よりも大きくて強そうだったし、ジャンボ鶴田のショートパンツ は赤と青に星が入っていて、まるでタミヤのプラモデルのようだった。ミル・マスカラスのマスクは、ライトに照らされてキラキラと輝いた。明るくて派手な5チャンネルに比べて、35チャンネルの『ワールドプロレスリング』はいまひとつ。画面がザラついている上に、出てくるのは黒いパンツの男たちばかりで地味だった。

それでもアントニオ猪木のことは気になっていた。ボクシング世界チャンピオンのモハメッド・アリと猪木が戦った時、中井くんはまだ小学校入学前だったが、それでも入場シーンははっきりと記憶に残っている。

でも、5年生の春に登場したタイガーマスクには、あまり夢中になれなかった。正体が佐山サトルだということも知っていたし、マスクもマスカラスに比べて安っぽかった。

6年生になると、プロレスをバカにする友だちが現れた。 「プロレスはインチキだってお父さんが言ってた。ロープに跳ばされると、どうして戻ってくるんだよ。ヘンじゃないか」

もちろん中井くんは言い返してやろうと思ったが、そんなときに頭に浮ぶのは、大好きなジャイアント馬場でもジャンボ鶴田でもなく、なぜかアントニオ猪木だった。

「異種格闘技戦のときの猪木はロープに跳ばないよ!」 「プロレスラーは強いに決まってる。猪木はオリンピックで金メダルをとった柔道のルスカにも勝ったんだから」 「猪木はアリとは引き分けだったけど、ほかのボクサーは全員倒したよ。キックを使うモンスターマンだってKOしたんだ」

中井くんが言い負かされることは一度もなかった。もともと頭がいい上に、プロレス専門誌を深く読み込んでいたからだ。 『月刊ゴング』、『別冊ゴング』、『月刊プロレス』、『デラックスプロレス』。すべての雑誌をお兄ちゃんと一緒に買って、隅から隅まで読んで頭に入れた。クラスメイトとは情報量が圧倒的に違っていた。 「ぼくは世界一のプロレスファンじゃないだろうか?」

密かにそう思っていた中井くんは、小学校を卒業する頃には「将来はプロレスラーになろう」と心に決めていた。アントニオ猪木のようなレスラーになりたかった。

地元の中学には柔道部もレスリング部もなかったけれど、あまり残念には思わなかった。当時『別冊ゴング』で連載されていた「アントニオ猪木の人生相談」には、こう書かれていたか らだ。 「プロレスラーになりたいのなら、柔道やアマチュアレスリングをやるよりも、もっと原始的 に、走ったり、ボールを追いかけたりするほうがいい」

迷わずサッカー部に入り、グラウンドを毎日遅くまで駆け回った。勉強時間はとても短かったが、生まれつきの秀才には問題ではなく、定期テストは相変わらず100点ばかりだった。

2年の春には中学に柔道部が新設された。自分は球技に向いていない。柔道に転向しようと考えたものの、結局、サッカー部を辞めることは許されなかった。

プロレスへの思いはつのる一方だった。 『プロレス大百科』という小さな本には、新日本プロレスの過去の入門テストの内容が記され ていた。

スクワット500回、腹筋と腕立て伏せが300回ずつ、ブリッジは 30分。毎日少しずつ数を増やしていき、数カ月後には完璧にできるようになった。トレーニングはつらかったが、辛抱強く続けているうちに快感に変わった。自分の身体が確実に強靱になっていく実感があったのだ。