Photo by iStock
歴史
江戸時代の精密な「花鳥図」は科学と芸術の結節点だった!
博物学をめぐる文化

私にとっての「忘れ得ぬ人」

人生における「忘れ得ぬ人」との出逢いとは、なにも現実に生きているこの時ばかりにあるのではない。

江戸時代絵画を研究する私にとって、ある一枚の絵との出逢いは、いつも同時にある「人との出逢い」も意味している。

それを描いた画家自身、あるいはその作品が生まれる文化的背景を考える上で、多くの人物たちの存在が浮かび上がり、彼らの後姿を追いかけることで、私の研究もまた深さを増してきたように思う。

このたび、拙著『江戸の花鳥画―博物学をめぐる文化とその表象』(原著はスカイドア、1995年刊)が講談社学術文庫の一冊として復刊された。原著版元の解散により絶版となっていただけに、嬉しい限りである。

本書誕生の経緯や、その後の研究の展開等については、「学術文庫版あとがき」として新たにまとめておいたので是非ともご一読頂ければと思うのだが、文庫版で初めて本書を知ることになった読者のために、私にとっての「忘れ得ぬ人々」を紹介したい。

『江戸の花鳥画』の中には実に多くの魅力的な人物が登場するのだが、今回は紙幅の関係で二人だけ取り上げる。

 

透徹した花鳥へのまなざし

まず一人目は、花々を愛し自らも植物画巻「花木真写」(陽明文庫蔵)を描いた公家・近衛家熙(1667-1736年)である。

東山天皇・中御門天皇の時代に、関白・摂政太政大臣という政治家として活躍した家熙は、同時に学芸の才知にも秀でた人物だった。

彼の侍医・山科道安(1677-1746年)が記した『槐記』は、折に触れて家熙より聞いた学識ある話を道安が綴った一種の日記であるが、家熙という当時を代表する文化人の、思索の様相が語られており、現代に読んでも新しい驚きに満ちている。

その中でも私の好きなエピソードは、朝顔の花活けに関するものだ。種々の芸道に秀でた家熙であるが、殊に華道については植物学者としての一面も合わせ持ち、一輪の花に向き合っていた。

ある時、家熙は道安に「人に漫に語るべからず」と前置きしてから、朝顔を活ける奥秘を話し始める。

花は活けるとき必ず水につける。だが家熙曰く、「朝顔の花に限っては、水につけて活けてはいけない」というのである。その理由は、「朝顔自体がもっている水気以外の水がかかると、花の色が変わってしまうから」だという。

そして何と「朝顔は蕾のものをまず宵のうちに活けて、決して水につけぬこと。これが殊のほか大事である」と、他言無用と道安には言いながら、家熙自身は得意げに話している姿が、まるで目に見えるようである。

家熙は画を描くときの心得として、「其鳥其花ノ形ヲヨクヨク見テ(……)心ニ会得シテ……」(『槐記』享保18年正月16日の条)と述べ、あたかも科学者のように、透徹した眼差しで花鳥を見極めてからそれを描くことを説く。

家熙のこのことばに、私は江戸の博物画や花鳥画に相通じて表れる、芸術としての理想や精神を感じずにはいられないのである。

大根泥棒に機嫌を良くした殿様

さて、もう一人の忘れ得ぬ人物、それは第八代熊本藩主・細川重賢(1721―85年)である。

逼迫していた藩財政を建て直した、世に「肥後の鳳凰」と称された江戸中期の名君であるが、彼もまた博物学者的な資質を擁した殿様だった。