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本当の幸福とはなにか? 『嫌われる勇気』著者がたどり着いた結論

幸福に「なる」のではなく幸福で「ある」

真の幸福

私はこの1年、アドラーと古代ギリシアの智恵に依って幸福について粘り強く考え抜き、『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』を上梓した。

本書で、私は幸福についてただ一般的に論じたのではなく、私がこれまでの人生でどんな経験をし、それを通じて何を学んだかということを明らかにしながら具体的に考えた。

いかに生きるか、幸福とは何か、どうすれば幸福になれるかは、私の理解では哲学の中心的なテーマであり、これを問題としない哲学などありえないが、真正面からこの問題を扱う哲学書は少ない。

三木清は『人生論ノート』の中で、近年現れた倫理の本の中でただの一箇所も幸福の問題を取り扱っていない書物を発見することは容易であろうと書いている。三木がこう書いたのは1938年のことだが、今の時代も幸福が真正面から扱われることは少ない。

 

人が幸福について考えないとすれば、現に幸福なので幸福について考えないのか。それとも、時代が人々に幸福について考える気力を失わせてしまったほど不幸なのか。三木は後者だと考えている。

経済状態、政治情勢は共に悪く、時代の状況が三木の生きた時代と酷似していると思える今も、幸福について考える気力も余裕もないというのが本当だろう。

しかし、そのことは人が幸福を希求していないということを意味しない。時代の性格がどのように変わろうと、人は幸福を求めてきたのであり、今も同じであるはずだからである。むしろ、今のような時代だからこそ幸福を希求するともいえる。

幸福は古代ギリシア以来、哲学の中心的テーマだった。私はギリシア哲学を長く学んできたが、大学を卒業して何年もしてから、ただ文献を調べ論文をまとめるだけの研究者であってはならないと強く思ったことがあった。

三木は次のようにも書いている。

「鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」(『人生論ノート』)

幸福は他の人に伝わっていくのである。それならば、私自身が幸福な哲学者にならなければならないと思ったのである。

ありのままを受け入れる

ところが、その後の私の人生は順風満帆どころではなかった。私は十年前に心筋梗塞で倒れたり、認知症を患った父の介護をしたりした。しかし、そのような経験が私を不幸にしたわけでも、そのような経験を乗り越えたから幸福になったのでもない。生きることはたしかに苦しいが、その苦しみをただ苦しいと見るのではなく、幸福の糧と見ることはできる。

生きることの苦しみの中でも、就中、対人関係が苦しい。人と関われば何らかの摩擦が起き、人から嫌われたりして傷つくことを避けることはできないからである。

しかし、人との繫がりの中でこそ生きる喜び、幸福を感じられるのも本当である。対人関係に入るためには、自分に価値があると思えなければならない。自分には価値がないと思っている限り、人と関わろうとはしないからである。