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オリンピック

東京オリンピックを持ち上げる空気に覚えた「不気味な違和感」

国民はアンダーコントロールにあるのか

消えた反東京オリンピック論者たち

最近ニュースを見ていると、自分が明らかにマイノリティであることを痛感する。

例えば、昨年末の安倍首相のパールハーバー訪問。メディアは歴史的訪問と持ち上げ、世論調査も多数が支持していた。これが南京なら話は分かるが、アメリカには戦後ずっと隷属し、喧嘩をしていたわけでもないのに(喧嘩相手にもならないが)今更なんで和解なのか、私には今もって分からない。感動すべきとか驚くべきとか言われても全然共感できないことばかりで、ちょっと孤独を感じたり。

そんな中、「あ、自分だけじゃない」と思える本に出会った。『反東京オリンピック宣言』。2020年の東京五輪開催に危機感を抱く16人(!)の識者による論考集だ。

元アスリートの端くれである私にとって、五輪は間違いなくワクワクする大イベントだ。昨夏の陸上男子四百リレーなど、興奮のあまり昔のバトンの感触が掌に蘇って変な汗をかいた。

だが、東京招致決定を伝える歓喜のニュースを見た時は、思わずため息が漏れた。これで大切なことが先送りされるな、でも決まったから仕方ないな、そう流していた。

それにしても3・11以降、様々な課題が山積のこの国がなぜ今、オリンピックなのか。深刻な財政破綻の危機が迫る中でなぜ、巨額の予算を注ぎ込んでオリンピックなのか。多くの人が批判を口にしていたのはいつ頃までだったろう。

 

本書は、そんな忘れかけていた疑問を呼び覚ます。ある識者は、次の東京五輪では、東日本大震災によって引き起こされた複合災害や社会的亀裂を「スポーツ・ナショナリズムの鞭を全力で振るって正面突破」する狙いが政権にはあると手厳しい。

確かに、今後の廃炉費用が未だ確定せず、それどころか数十兆円規模に膨らみ続ける福島原発ですら、招致の過程ですでに「アンダーコントロール」されてしまった。小池都知事がボート会場問題をぶち上げたことで久々に「復興五輪」の謳い文句が蘇ったが、それもいつしか立ち消えに。寄ってたかって地元民の期待を煽っていたメディアはどこに行ったのか。

東京五輪でのテロを想定し、国家レベルのセキュリティ体制がオリンピックを名目にシビアになっていくと指摘する識者もいる。またぞろ国会では、過去に三度も廃案にされてきた悪名高い共謀罪を「テロ等準備罪」などと万人受けする新ラベルに張り替えて登場させるようだ。

すでに特定秘密保護法ができ、通信傍受法が改悪された今、本書の予言は悪い方向で当たりつつある。

弾圧の下でのエロパワー

東京五輪の協賛企業になった大手メディアから五輪批判は聞かれないし、「みんなで」応援しようという同調圧力は凄まじい。報道の現場では、優秀な人ほど五輪取材に投入されていくだろう。そこから外れた人たちはどうか腐らず、感動的な五輪報道に覆い隠される真の問題をしっかり探り出してほしい。

共謀罪で連想するのが、大正14年成立の「治安維持法」だ。国家に逆らった罪で、文化人や思想家らが次々と拘束され、時には獄中死するという暗黒の時代が始まったのが昭和初期。その頃に花開いた文化を描いたのが、毛利眞人著『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス』だ。

著者が注目したのは、昭和歌謡を収めた「レコード」という意外なツール。検閲で言論統制が厳格化される時代にあって、確かにレコードだけはその網から漏れた時期が長い。歌詞や制作された背景を丁寧に辿っていけば、レコードも貴重な歴史的史料になる。

一世を風靡したエログロナンセンスの記憶が、怪しげなバックミュージックとピンク色の照明の中に浮かび上がってくる。かなり際どいエロ小唄、レビューでズロースを脱ぐ脱がない論争、夜な夜な出没するお色気たっぷり円タクガール。これって本当に昭和初期?と思わず唖然。

厳しく弾圧されればされるほど、本能を発露させていく民衆のパワー。これ以上の詳細は本書でお楽しみ下さい。

関東大震災後の大不況と農村の疲弊の中で、あだ花のように咲いたエログロナンセンス。それも昭和7年の「爆弾三勇士」で一掃され、その後にやってきたのはミリ(ミリタリー)そしてテロ。レコードの世界もやがて戦争一色に染まっていく。

ナショナリズムはいつも「道徳」を引っ提げてやってくる。エロでもグロでも反五輪でも、様々な意見を自由に発言できる場があることは平和の大原則だ。

歴史学者エマニュエル・トッドのインタビューを抜粋した『グローバリズム以後』は、自由の国フランスを覆う窮屈な空気をよく伝えている。相次ぐテロを契機に人々は一斉に右傾化し、トッドのような著名な識者でさえも、国内の移民を擁護したとたん「犬のように扱われ、友人の半分を失う羽目」になり、テレビではつるし上げにあったそう。

テロへの対策は、逆に国家の「統治の方法」にされるという指摘が興味深い。不都合な出来事の原因を他者に押し付け、一致団結して排斥へと向かう不気味な風潮は、まさに日本の今に重なってみえる。

週刊現代』2017年2月11日号より