イラスト:木下大門「双葉山」

横綱・鶴竜が明かす「トップだからこそ負う“苦悩と責任”」
ただ強いだけではダメなんです

大相撲の頂点を極めた男たち、22人の貴重なインタビュー集『横綱』が、遂に文庫化された。

ノンフィクションライターの武田葉月氏が綴る同書は、歴代の横綱の肉声を伝え、昭和から平成への時代の変遷を映し出している。相撲ファンのみならず、日本の伝統文化を愛する人々、必読の書といえよう。

現代ビジネスでは、文庫化にあたって新たに収録された「鶴竜力三郎」の章を掲載する。

第71代横綱 鶴竜力三郎

平成26年一月場所は14勝1敗。けれども、優勝決定戦で白鵬関に敗れて、準優勝。「綱取り」がかかる次の三月場所で、14勝を挙げて初優勝を遂げた私は、71代横綱に推挙されました。

モンゴル人としては、朝青龍関、白鵬関、日馬富士関に次いで4人目ということになるわけですが、それまで何度か綱取りを逃している大関・稀勢の里という存在を考えれば、もしかしたら、「すんなりと横綱に昇進した」というイメージを持たれているかもしれません。

昇進が決まって、65代横綱の貴乃花親方から雲竜型の土俵入りを伝授されたり、実際に明治神宮で横綱推挙式、奉納土俵入りを披露していく中で、「大変な地位に上がってしまったな」という実感が湧いてきたものです。

たしかに、初優勝して、横綱昇進を確実にした時には、「うれしいです」と口にしたのですが、実際は不安で不安で、「この先、いったいやっていけるのかな……」という心細さしかなかったんです。

それは、横綱という地位は、これ以上「先がない」からです。成績を残せなければ、相撲をやめなければいけない。特に、白鵬関という絶対的な存在の横綱がいて、日馬富士関や稀勢の里も虎視眈々と優勝を狙っているわけですから、戦国時代に飛び込んでいくようなものです。

実際、横綱デビューとなった五月場所は9勝6敗。その後は、二ケタの成績を上げ続けていたのですが、十一月場所では白鵬関の32回目の優勝を阻むことができなかった。

優勝32回とは、昭和の大横綱・大鵬関が残した偉大な記録で、白鵬関はこの記録に追いつくことを目標に、貪欲に勝利にこだわっているように見えました。そうした気迫に圧倒されてしまったのです。私は12勝という成績でしたが、満足することはできませんでした。

そして、平成27年3月、私は相撲人生最大のピンチに追い込まれます。

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余儀なく「休場」

前年の年末くらいから違和感のあった左肩が悪化し、検査をしたところ、左肩腱板の損傷と診断されてしまったのです。

いつ、どの力士との対戦で痛めた、というのではなく、力士になって14年、その間、徐々に蓄積したもののようでした。

自分としては、まさかそこまで悪化しているとは思っていなかったので、当然、三月場所には出場するつもりでした。ですから、初日は逸ノ城との取組も組まれていました。

三月場所が開催される大阪は、1年前に優勝と横綱昇進を決めたゲンのいい場所で、思い出の場所でもあります。さらに、1年に1回しか本場所がおこなわれないこともあって、ファンの方たちの声援も熱いんです。だから、ギリギリまで治療をし、調整を続けてきたのですが、最終的には、初日を迎えてから「休場」という決断を下しました。

さっきも言ったように、「横綱とは、成績を残さなければいけない地位」と、私は考えています。中途半端な体調と気持ちで土俵に上がっては、土俵にもファンの方にも失礼なのではないかと思いました。

休場中は、リハビリを受けながら、下半身を中心にトレーニングを続けていました。肩の腱板の損傷というのは、部位的にも完璧に治すことは難しいのだそうですが、完治できないのであれば、肩に負担をかけない体の使い方を学習し、体得しようと考えたのです。

そうして迎えた翌五月場所も、私は休場という苦渋の決断をしました。

さすがに、2場所連続して土俵から離れることで、不安はさらに大きくなったのですが、私には新たにできた家族という存在がありました。

この年の1月に結婚を発表した妻(ムンフザヤさん)と5月に生まれた長女(アニルランちゃん)は、精神的な不安を和らげてくれる存在となっていました。

トレーニングから自宅に戻り、生まれたばかりの長女がスヤスヤと眠る様子を見ると、幸せな気持ちになれましたし、

 「この子のために、がんばらなければいけない!」と思えてきたのです。

そして、「いつか、アニルランと一緒に優勝賜杯を抱いて写真を撮りたい」という新しい夢が、私の中に芽生えてきたのです。

 

相撲カッコイイなぁ!

昭和60年8月、モンゴル・ウランバートルで生まれた私を見て、父母は相当驚いたそうです。

なぜなら、体重が5000グラム近くもあって、ほかの赤ん坊よりひと回り大きな体をしていたからです。

私には姉が一人いるんですが、その姉ともケンカをすることもなく、手がかからない子供だったらしいですね。ちなみに、アナンダという名前は、大学教授をしている父(マンガラジャラブさん)が付けたもので、チベット仏教に由来しているということです。

私は、当時モンゴルで流行していたバスケットボールが大好きで、そのほかにもテニスやサッカーなどもやっていて、体を動かすことが好きなタイプでした。そのうちに、レスリングも始めるようになったのですが、実際に体を動かす以上に夢中になったのが、日本の大相撲を放送するテレビ中継でした。

私以外のモンゴル人力士もそうだと思うんですが、平成4年に初めてのモンゴル人力士として日本の大相撲界に入門して、8年、幕内力士になった旭鷲山関、10年に幕内に昇進した旭天鵬関。このお二人の活躍が、モンゴル中のテレビで中継されるようになると、大人も子供もテレビにクギづけという状態でした。
 
 「カッコいいなぁ! 将来は、僕も旭鷲山関や旭天鵬関みたいな日本のお相撲さんになりたいなぁ」

少年時代の私は、単純にお二人に憧れていました。

広く知られているように、モンゴルではモンゴル相撲が盛んで、「男の子が生まれたら、ブフ(モンゴル相撲の力士)にしろ」と言われているくらいポピュラーなスポーツです。けれども、私自身は遊び程度でしか、モンゴル相撲を取ったことがありませんでした。

お父さんがブフの称号を持っている、白鵬関、朝青龍関、朝赤龍関、時天空関などは、小さい頃からそれなりにモンゴル相撲を取る機会はあったようです。

そして、朝青龍関は格闘技の道場にも通っていたようですし、日馬富士関も柔道道場で力を発揮していたようですから、彼らは当時から「大相撲」に対しての素地があったと言えるのかもしれません。

13〜14歳になった頃からでしょうか。日本に行って、自分自身が日本の力士になってみたいという気持ちが、私の中で強くなってきたのは……。

相手の体の一部が地面に付くまで、長時間相手と組み合うモンゴル相撲と違って、日本の大相撲は勝負がスピーディーです。体の小さい力士が大きな力士に、いろいろな技で勝つというところも、私には魅力的に映りました。

絶対にやってみたい!

私の相撲への憧れは、「実際に力士になる」という決意に変わっていました。

けれども、力士になりたいと思っても、どこに連絡をしたらいいのか? その方法が私にはわかりませんでした。