Photo by gettyimages

知っているようで知らない「芸者」〜実際はどんな職業なんですか?

「花柳界」と彼女たちの歴史をたどる

仕事に関する誤解

向島あたりの老芸者たちに神輿担ぎの若者を配してドラマを構成し、ストーリーを起こそうとしているけれど、悲しいかな、芸者を上げて遊んだ経験はなきに等しい。

戦時中、高知の四万十川河口の漁村に大阪の花街で芸者をしていたという粉黛染みた肌の年増が疎開してきて、戦後は近隣の女子らに舞踊を教えていた。青年会館で三味線を弾き弾き、女の子が踊りの所作をしくじると、癇を立てて長煙管をパシッと叩き付ける。

そんな様子を私たち悪童は窓に群がり面白がって飽かずに眺めていた。それが私の芸者という存在に触れた最初である。

ネットで向島芸者を検索すると、芸者募集の広告に行き当たった。『年齢二十五歳以下、身長百五十八センチ以下、容姿端麗、お酒に強い方』などとあり、端から衣装や小間物類も貸してくれて声曲舞踏の稽古もさせてくれるそうな。

 

早速、取材に行きたいけれど、先ずその前に伝統的な芸者という種族の研究をしなければと、岩下尚史著『芸者論 花柳界の記憶』『名妓の夜咄』を繙く。題名の示す通り、『名妓の夜咄』は戦前から新橋で活躍した高齢の元芸者さんからの聞き取りの回顧録で、2冊はところどころ重複はありながらも相補っている。

そもそもの芸者の原型は、豊穣をもたらす神の来訪を巫女が待ち受けて接待し、一夜をともにするという神婚秘儀から生起しているという。

つまり客自らが神となって、巫女である芸者の接待を受けるという神婚秘儀の再生装置として発展して、江戸吉原で初めて芸者という呼び名が生まれた。

吉原とは遊女ばかりが蠢いている一大売春地帯だと決め込んでいたのだが、客と遊女の情が通い合うよう、座敷での弦歌など芸の取り持ちのみを務める芸者が存在していて、遊女の職分を侵さぬよう売色は禁じられていたと知り、目から鱗だ。

古代中世から説き起こして、江戸、明治、大正、昭和、平成の現代までの芸者の様態と花柳界の沿革が述べられている。これ以上の参考書はないであろう。

花柳界の隆盛と衰微

板前がいて客に料理を供するのが料理屋(お茶屋)であって、待合は板前がおらず他所から仕出し料理を運ばせる。料理屋では客の寝泊まりはさせないけれど、待合は居続けも可能だと、そんなことも知らなかった。

「待合政治」と揶揄された明治政府の元勲らの正妻が揃いも揃って芸者出身であったり、権妻と呼ばれた芸者上がりの第二夫人がいたりも合点される。

隆盛を謳われた柳橋、新橋、赤坂などの花柳界も昭和30年代の半ばから、ナイトクラブやキャバレーが接待の場として重宝されるに従って、次第に景気に翳りが見え始め、39年の東京オリンピックの旧市街再開発の追い打ちを喰って、都下の40ヵ所に余る芸者町が姿を消していった。

その後のオイルショックによって大手企業の接待自粛が始まると、政治家も同じ密室政治なら料亭よりもホテルのほうが手軽で好都合だとばかりに足が遠のき、平成を過ぎる頃には江戸時代からの由緒ある柳橋の芸者町が姿を消し、赤坂の料亭もあらかた廃業、花柳界の格を保っているのは新橋のみとなった、とある。

東京の芸者屋にとって何よりも致命的だったのは、戦後の労働基準法と児童福祉法で、六つ七つの幼い少女を子飼いから半玉、そしていっぽんの芸者として仕立て上げるまでのシステムが崩れてしまったことで、冒頭の芸者募集の公告に見る通り、会社勤めやホステスなど他業種からの横滑りも多く、一夜漬け同様の芸者ばかりが右往左往しているのが現状だと、著者もシラけている。

向島には80歳の現役芸者さんもおられるそうだから、戦前から子飼いとして芸事を仕込まれていれば、18、9歳で戦後の花柳界の最盛期を迎え、「ほんものの芸者」として活躍したのかもしれないと妄想してみる。

永井荷風の隠れもなき名作『腕くらべ』は大正期の新橋芸者3人が男を巡って意気地を張り合う展開で、読み物としてのエンタメ性に改めて目を瞠る。過去に映画化されなかったのが不思議なくらいだ。

老芸者たちのひとりが老人ホームに入居して虐待を受けるという設定もあるのだが、藤田孝典著『続・下流老人』によると、東京の場合、民間の有料老人ホームの月額利用料の平均が37万円とあるから、国民年金しかないであろう芸者上がりの老女にそんな金額が払い続けられるものかと心配だ。

日本老年学会が高齢者の定義を65歳以上から75歳以上とすべきだとの提言をなし、政府もそれに乗っかる姿勢なので「国を挙げての年齢のサバ読み」で「一億総活躍社会」の名のもと死ぬまで働かされかねない。

「生きるも地獄、死ぬも地獄」と、老芸者が嘆く場面もアリであろう。

『週刊現代』2017年2月4日号より