野球
大下剛史に聞く(3)芸者衆向けのノックの一番手に僕は指名された
東映・水原茂監督との逸話

昨年(2016)、25年ぶりにリーグ優勝を果たした広島カープ。この優勝を75年の初優勝に重ねる向きも多い。41年前、不動のリードオフマンとしてチームを牽引したのが大下剛史氏。“暴れん坊軍団”と呼ばれた東映では切り込み隊長として活躍した選手だ。 彼はどのようにして広島を変えたのか。(その2はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50790

プロ入り前の「切り込み隊長」

二宮 大下さんは名門・広島商の出身ですが、甲子園出場の経験は?

大下 僕は一度も行ってない。3年の時は「東の作新学院、西の広島商」と呼ばれるくらい強かった。同期には大倉英貴(阪神)や上垣内誠(広島―日本ハム)もおったからね。でも県予選で負けた。一方の作新は八木沢荘六(ロッテ)らがおって春夏連覇。3人もプロに行く選手がいながら甲子園に行けんかったというのは、何かが足りんかったんでしょう。

二宮 高校時代のポジションは?

大下 僕は中学時代からずっとショートよ。子供の頃から野球が好きで、壁にボールをぶつけては捕る練習をやっていた。足も速かったな。運動神経もええ方やったと思うよ。

二宮 高校卒業後、駒澤大学に進んだきっかけは?

大下 僕より3つ上に松村正晴さん(巨人―東映)という先輩がおって、その人が駒澤に進んだ。今でこそ駒澤といったら大学球界の強豪だけど、当時はそんなに強くなかった。

二宮 大学4年秋には東都大学野球リーグで首位打者に輝いています。プロからの誘いも多かったのでは?

大下 いや、僕は日本石油(現JX―ENEOS)に就職が決まっていた。ウチのオヤジとも、日石に行く約束をしていた。ところが東映から2位で指名された。社会人を袖にしてプロに進んだのは、今になって考えれば、やはりプロ野球に対する憧れが強かったんやろうね。

 

二宮 ドラフト1位は中央大学のエース高橋善正さんでした。

大下 彼とは神宮でよく対戦したよ。あんなにえげつないシュートを投げるピッチャーはおらんかった。“うわぁ、すごい!”と思わず腰を引いたもんね。特に1、2年生の頃の切れは抜群やった。結局、プロで何勝したの? 60勝? 大学行かずにプロに進んでいたら、相当勝っとったやろうな。

二宮 高橋さんといえば、1971年8月、西鉄相手にプロ野球史上12人目の完全試合を達成しています。この時セカンドを守っていたのが大下さんでした。

大下 九回に“あわや”という場面があった。米山哲夫のライナー性の打球がセンター方向に飛んだ。パーフェクトゲームなんて、経験するとしても一生に一度くらいでしょう。中途半端に行くくらいなら飛び込んでしまえ、と思って飛び込んだ。これがよかったんやね。グラブの網に引っかかっとった。

黄色い声が飛び交う球場

二宮 かつて東映といえば、“暴れん坊軍団”と呼ばれていました。主力選手はピッチャーでは土橋正幸さん、森安敏明さん、金田留広さん、高橋直樹さん、野手では張本勲さん、大杉勝男さん、白仁天さん、種茂雅之さん、毒島章一さん……そうそうたるメンバーですね。

そんな中、小技のきく大下さんは、チームにおいて毛色の違った選手でした。

大下 監督が水原茂さんじゃなかったら、僕みたいな小さな選手は使ってもらえんかった。当時の東映はバッティングはよかったけど、“ザル内野”と揶揄されるほど守りはひどかった。水原のオヤジも内野手だったから、守りを何とかせんといかん、と思うとったんじゃろうね。

二宮 当時、東映は静岡県の伊東でキャンプを張っていました。そこで水原監督のお眼鏡にかなったと聞きました。

大下 その頃はね、昼頃になると、伊東の芸者衆がキャンプを見に球場までやってくる。水原のオヤジは、ノックする姿がカッコイイんよ。それを見た芸者衆はキャーキャー言っとる。「監督さん、ノックしてえよ」「ノックする姿を見せてえよ」と声がかかるたびにオヤジは、その声援に応えようとする。今じゃ考えられんことでしょう。

二宮 今、そんなことやったら大問題になりますよ。

大下 そりゃ、そうやろうね(笑)。で、その時、僕は外野で球拾いをやっていた。張本さんがひとりでガンガン打っている間、僕らはずっと球拾い。今のように時間を割り振るような練習ではなかったからね。

しばらくすると、水原のオヤジの声が聞こえてきた。「レフト守っているヤツを、一番に呼べ」と。芸者衆向けのノックの一番手に僕は指名された。オヤジは芸者衆にええ恰好をしたいから、30分たってもノックをやめない。しかも芸者衆たちと会話をかわしながらやるんです。