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野球
大下剛史に聞く(1)広島カープ悲願の初優勝、その舞台裏
伝説の監督ジョー・ルーツの思い出

広島カープが25年ぶりにリーグ優勝を達成した。ファンの中には、今回の優勝を1975年の初優勝に重ねる向きが少なくない。あの時は球団創設26年目での悲願達成だった。

41年前、不動のリードオフマンとしてチームを牽引したのが大下剛史である。地元出身の大下は74年のオフに、日本ハムからトレードで移籍してきた。

アマチュアの名門・広島商、駒澤大で持前の俊足好打好守を磨き、“暴れん坊軍団”と呼ばれた東映では切り込み隊長として活躍した大下は、どのようにして広島を変えたのか。洗いざらい語ってもらった。

物議を醸した「ワシのトレード」

――東映で1年目からレギュラーとして活躍し、日拓・日本ハムとチーム名を変えながらもスタメンを張っていた大下さんが74年オフ、トレードで広島に移籍してきたことは驚きでした。何が原因だったのでしょう。

大下 結局は水原茂と三原脩の確執ですよ。僕は水原のオヤジさんに世話になっていたので、73年に球団社長に就任した三原さんにすれば水原色を消したいという狙いがあったんじゃないかな。

おもしろい話があってね、ワシが広島からトレードを打診された直後に(東映時代からの先輩の)張本勲さんから電話が入ったんです。「剛史、このトレードはすぐに断れ。行くんやない!」と。そんなこと言われても、こちらはどうすることもできない。

ワシの次は大杉勝男さん、そして張本さんと相次いで、主力がトレードでチームを去っていった。時間をかけて三原さんは水原色を一掃したんです。

――74年オフに広島の打撃コーチから監督に昇格したジョー・ルーツが大下さんのプレーを買っていたという話を聞いたことがあります。

大下 それはワシも後で知ったんだけど、74年のカープとのオープン戦で、ワシがコーチの制止を振り切って走ったシーンがあったらしい。それを見ていたルーツが、監督になる条件のひとつとして「オオシタを獲ってくれ」と球団に頼んだというんです。「オオシタのプレースタイルはオレのやる野球にマッチしている」とね。

――トレードではレギュラークラスの渋谷通、上垣内誠との二対一でした。大下さんへの期待の大きさがわかります。

大下 これも後で聞いたんじゃけど、球団代表の重松良典さんは契約書にハンコを押す時、手の震えが止まらんかったらしいよ。球団にすれば、ひとつの賭けだったんでしょう。

1日も休みがない

――大下さんは広島の出身です。地元は歓迎ムード一色だったのでは?

大下 74年の秋に、ミスター(長嶋茂雄)が引退して、V9を達成した川上哲治さんも監督を退くことになった。川上さんの最後の雄姿ということで日米野球の指揮を執ることになった。ワシもオールジャパンのメンバーに選ばれた。

普通なら、トレードが決まっても、前のチームのユニホームで出るでしょう。ところがワシに対してだけ、「カープのユニホームを着て出てくれ」と。広島で試合があるから、その方が盛り上がるじゃろう、と言うんです。ワシにとっては地元やし“よう帰ってきたのォ”という歓迎ムードが背景にはあったんでしょうね。

――74年のオフというと、まだ紺のユニホームですね。

大下 そうよ、紺のユニホーム。ところがルーツが指揮を執る翌75年から赤い帽子になった。これは恥ずかしかったね。まぁ、ルーツの発想はすごかったよ(笑)。

――ルーツのキャリアを調べるとカープにくるまではインディアンスのコーチをしていました。そのころ、メジャーリーグで圧倒的な存在感を発揮していたのが、“ザ・ビッグレッドマシン”の異名をとったレッズです。ルーツはレッズの指揮官スパーキー・アンダーソンを意識していたという話があります。

大下 あぁ、なるほどね。きっとそういうことじゃろうね。スパーキーもそうだけど、まぁルーツも大変な激情家やった。

本拠地での開幕戦だったかな。相手は巨人。ワシはヒットの打球を、ペペンと走って二塁打にした。試合に勝って風呂に入っていると、いきなり果物かなんかをワシにバンと投げつけ、「これ、全部食べろ!」と言うんです。ルーツなりの感謝なんでしょうけど、“変わっとるヤツやなァ”と思ったもんですよ。