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フクシマで死んだある老医師の人生「患者を置いて逃げられるか!」

避難区域に残った「たった一人の常勤医」

高野英男氏・81歳。
原発事故後の広野町に残り、たった一人で患者を診続けた。

「皆は逃げなさい」

福島県浜通りの中部に位置する広野町。人口約5000人の小さな町だ。海岸沿いに延びる国道6号線の近くの高台に高野病院はある。

福島第一原発から南に22km。高野病院は、原発のある双葉郡内で唯一、入院できる病院として東日本大震災後も地元の医療を担ってきた。

その高野病院を「たった一人の常勤医」として支えていた高野英男院長(81歳)が、昨年12月30日、火災により死去。大黒柱を失った高野病院は現在、存続の危機に立たされている。

 

3・11の原発事故後、広野町は放射能汚染の危険性があるため、全町民に避難指示が出され「緊急時避難準備」区域に指定。町民はもちろん高野病院のスタッフらも次々と避難していった。

だが入院患者の移送は簡単ではなかった。当時、高野病院には、70代~100歳の寝たきりの患者が37人いた。いずれも容体は重く、ヘタに動かせば命の危険性もある。

「患者を置いて逃げるわけにはいかない」高野院長はそう言って留まることを決断。

高野院長の娘で、病院の理事長を務める高野己保氏が当時を振り返る。

「院長が『私が残るから皆は逃げなさい』と言うんです。そしたらある看護師が怒りだしてね。『院長一人残していけるわけないでしょう。点滴やオムツ交換はどうするんですか』と言って、何人かのスタッフが一緒に残ってくれました」

だが、震災によりライフラインは遮断され、電気もガスも水もない。当然、医療物資も食料も手に入らず、入院患者に出す食事もままならない状況だった。

「通信手段がほぼ途絶え、患者さんのご家族に連絡がつかなくなったのは誤算でした。そんな状況の中で、避難させる患者さん、病院に残す患者さんを院長の判断で決めていきました。私は事務方として、これは後々トラブルになるかもしれないなと思っていました。

ところが患者さんの家族からは『院長先生がそう判断してくださったのだから、間違いなかったのでしょう』と感謝の言葉しかなかった。院長がこの地で長年築いてきた住民との関係性を改めて感じましたね」(己保氏)

その一方で、警察からは「なぜ避難しないんだ」と詰められたこともあったという。

その時の心境を己保氏はこう語る。

「本来、災害のような非常時は、患者さんやお年寄りの方から助けられるべきなのですが、原子力災害においては、それが全く逆でした。本当の弱者は切り捨てられるのだと感じましたね」

こうして半ば行政に見捨てられながらも、「地域医療の灯を消してなるものか」と、高野院長は震災後も一人で必死に踏ん張ってきた。

現在、高野病院には102人の入院患者がいる。高齢にもかかわらず、365日24時間、昼夜を問わず、患者のために尽くす高野院長の姿は、まさに「超人」だったという。

「あと10年は頑張る」――高野院長が亡くなったのは、そう言っていた矢先の出来事だった。

「院長は亡くなる直前まで当直をこなしていました。患者さんに何かあった場合すぐに駆けつけられるようにと、病院の敷地内に自宅兼医師休憩室を建て、そこで生活をしていた。火災があったのもその場所です。

院長は朝5時に来て入院患者の血糖値などを確認し、看護師に指示を出すと、その後は回診、外来を行い、夜遅くまで事務仕事をこなす。非常勤の先生に協力してもらってなんとか持っていましたが、かなり疲弊していたのは事実です」(己保氏)

「高野病院を支援する会」のメンバーで、南相馬市立総合病院に勤務する尾崎章彦医師も続ける。

「もともと高野病院は救急患者を受ける体制にはなっていなかったのですが、震災後はほとんど断らずに受けていました。地元民だけでなく、怪我をした復興関係の作業員が夜に訪れても追い返すことなく治療していた」

性格は穏やかでマイペース。決して多弁ではないが、ゆっくりと語りかけるような口調で、丁寧に説明してくれると、患者からの信頼も厚かった。

糖尿病を患い入院中の女性(85歳)は、時折涙をぬぐいながらこう話す。

「あんないい先生他にはいないよ。私は別の病院では1年持たないと言われたけど、高野病院に入院してもう3年経つ。院長先生が寿命を延ばしてくれたんだ。なのに先に逝ってしまって……残念としか言いようがない」