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「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけ
ナンセンスな主張が繰り返される理由
辻田 真佐憲 プロフィール

「教育勅語」成立の経緯

1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。

ときの首相山県有朋(内務大臣兼任)も国防上の理由などからその求めに同意し、明治天皇より「徳育に関する箴言」編纂の命令を取り付け、腹心の芳川顕正内務次官を文部大臣に据えてその任にあたらせた。山県は「軍人勅諭」(「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」、1882年)の民間バージョンを考えていたようだ。

同年5月、「徳育に関する箴言」の起草は中村正直に依頼された。ところが、『西国立志編』の翻案者・中村は啓蒙思想家であり、自由民権運動に親和的な草案を提出してきた。そこで、代わりに法制局長官の井上毅に白羽の矢が立った。井上は、「大日本帝国憲法」の起草にも関わった法制官僚である。

能吏の誉れ高い井上は、その評判に反せず、山県の求め以上に完全な文書をめざした。

井上は、山県に対する書簡で「箴言」ではなく「勅語」の名称を使い、その内容は「王言の体」でなければならないと説いた。

つまり、君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではないと主張したのである。

また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。

井上は、明治天皇の侍講で儒教主義者の元田永孚と協議しながら、「教育勅語」を短期間で完成させた。その本文はわずか315文字に刈り込まれた。それが以下である。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
  明治二十三年十月三十日
 御名 御璽

注釈書は戦前だけで300種類以上

では、「教育勅語」はどのような内容だったのか。

実はこれがむずかしい。というのも、井上毅が「王言の体」をめざした結果、言葉づかいが曖昧になり、様々な解釈を受け入れるものになったからだ。「教育勅語」の注釈書は、戦前だけで300種類以上も刊行された。

そのなかでも、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎が執筆した『勅語衍義』(1891年)は、ときにもっとも権威があるとされる。文部省が公認し、井上毅を含む文教関係者の回覧を受け、天覧にも供されたからである。

ただ、井上毅が不満を述べ修正を求めた(にもかかわらず修正されなかった)箇所もあり、そのまま採用することはできない。それに、井上哲次郎はのちに不敬事件を起こして、帝国日本のイデオローグとしての地位を失った。

 

また、「教育勅語」には英訳を含む様々な官定翻訳が存在するが、これも正確なものではない。なぜならその官製訳は、ヨーロッパ向けでは、日本の先進性をアピールするために意訳されることがあったからである(官定翻訳については、平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』を参照されたい)。

さらに、文部省は1939年から翌年にかけてひそかに学者を集めて「教育勅語」の全文通釈を作成したが、一般に公開されたものではなく、またアジア太平洋戦争(1937〜1945年)下特有の超国家主義的な解釈も行われたため、やはりこれもそのまま鵜呑みにできない。

このように、「教育勅語」の内容理解は困難をきわめる。現在、「現代語訳」として流通しているものにも身勝手な解釈が含まれ、信頼に足るものが少ない。

とはいえ、具体的な徳目が以下の箇所である点はおおよその同意が取れている。

父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

先述の全文通釈(1940年完成)の該当箇所を以下に引いておく。正しい解釈と断言できないが、部分的には参考になる。

父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚の御栄をたすけ奉れ。

最後の「一旦緩急アレハ(万一危急の大事が起つたならば)」以下はともかくとして、それ以前の徳目の多くはかなり現実的なものだ。

もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。