柏レイソル時代の安永聡太郎選手。2005年〔PHOTO〕gettyimages
サッカー

国見と清商、サンフレッチェとマリノス――人生を決めた2つの選択

安永聡太郎Vol.2

Vol.1【なぜ監督とぶつかって干されたか

「どうせなら、中心でやったほうがいい」

1976年4月20日、安永聡太郞は山口県宇部市で生まれている。

最初の転機となったのは、中学3年生のときだったという。

「全国9地域から集まる、地域ユース対抗戦という大会があったんです。ぼくはまず中国地方代表として中3の5人の中に選ばれた。大会を行った後、東西対抗戦という形で、それぞれ16人の選手が選ばれた。両チームには中学生が2人ずつ入っていた。

ぼくは大会では活躍していなかったんですけれど、選抜に入れて貰った。当時は、国見(高校)の小嶺(忠敏)さんがアンダー17の監督で力があった。小嶺さんはぼくのことを可愛がってくれていたので、入れたんだと思います」

86年度、国見高校は長崎県代表として高校サッカー選手権に初出場、準優勝という結果を残した。高校選手権では翌87年度に初優勝を成し遂げている。

山口県は本州ではあるが、九州と接している。近隣県ということもあり、安永は早くから小峯に目を掛けられており、中学卒業後は国見高校へ進学することになっていた。

「ユース対抗戦に出ているのは、高1、高2。ぼくからしたら基本、(年が)上じゃないですか。その選抜の試合で、ぼくは3点取った。試合は4対2で勝ったはず。同じウエストに平野孝がいたんです。それで(清水商業の)大滝(雅良)先生に“中国地方に安永っていう化け物がいました”という話をしたらしいです」

平野は安永より2つ年上にあたる。後に清水商業から名古屋グランパスエイトに加入。日本代表にも選ばれている。

大滝に率いられた清水商業は85年度に高校選手権で初優勝を飾っている。教え子の中には風間八宏、藤田俊哉、名波浩などがいた。

「大滝先生から自宅に電話があったんです。“清水商業の大滝と申しますが、話を聞いてもらえないでしょうか”と。大滝先生が家まで来て、父親と話をしたんです」

大滝はこう説得したという。

――国見高校も確かに名門です。しかし、強豪校と練習試合をするためにバスに乗って出かけなければなりません。しかし、自分たちは待っていれば練習相手がやってくる。なぜならば清水はサッカー王国だからです。清水はサッカーの中心です。どうせサッカーをやるならば、中心でやったほうがいいのではないですか。

「ぼくよりも親父の方が(大滝の話に)引き込まれていました。国見の青と黄色のストライプのユニフォームは憧れではあったけど、静岡という王国から誘われたことは大きかった。ただ、小嶺さんから誘ってもらった恩義があるというので悩みました。

すると父親が“俺が(小嶺に)謝ってやるから行け”と。父親がぼくの人生の選択に口を出したのは、この1回だけでした」

 

安永は初めて清水商業の練習に参加した日のことを今も良く覚えている。

この日まで大滝は安永のプレーを1度も見たことがなかった。わざわざ山口県まで行って獲ってきた安永がどのようなプレーをするのか見たいと考えたのだろう。紅白戦でレギュラーチームの中に入れた。

「自分が(運を)持っているなーと思うのは、そこで2、3点取ったんです。当時、清商のレギュラーチームは(紅白戦で)赤ビブスだったんですけど、3年間赤ビブスを1回も脱がなかった。ただ、こうも思うんです。

他の1年生と同列に並ばされて、自分が上がって行けたかというと難しかった。(上級生の)2年、3年生にも選抜でやっていた人はいっぱいいたから。スタートで上手く(チャンスを)掴めたので3年間(試合に)出続けることができた。本当に楽しい3年間でしたね」

安永は2年生のとき、高校選手権、全日本ユース、3年生のときに高校総体と全日本ユースで優勝している。