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近現代史

安倍晋三に受け継がれた岸信介の「民族主義」と「選民思想」

だから改憲そのものが自己目的化した

岸の聖戦イデオロギー

そろそろ、岸信介とは何者だったかという問いに私なりの答えを出さなければならない。たぶんそれは、今の首相の安倍晋三とは何者なのかという問いにつながっていくはずだ。

岸は、巣鴨プリズンで記した『断想録』で1941(昭和16)年12月8日の開戦時の模様をこう振り返っている。

〈十二月八日星野内閣書記官長より臨時閣議召集の電話が掛つて来たのが同日の未明四時頃であつた。首相官邸に各大臣の顔の揃つたのがまだ明けやらぬ午前六時頃であつた。我等は始めて真珠湾攻撃、馬来半島上陸、シンガポール爆撃等の報道を聞いた。「真珠湾とは何処だ」と質問した某大臣があつた〉

岸は海軍大臣による真珠湾の戦果の報告を〈昻奮感激の中〉に聞いた。この後、宣戦の詔勅を審議する枢密院の会議に出席し、各大臣が詔書に〈副書〉したのは午前10時すぎだったと思うと述べ、こうつづける。

〈此副書に当りては余は手のかすかに震へるを覚えた。全く感激の極みであり、開闢以来未曾有の大戦に国運を賭する此の歴史的詔書に対する国務大臣の副書であつた〉

岸には閣僚として開戦に反対すべきだったという悔いは微塵もない。無数の戦死者への負い目や責任感も感じられない。あるのは歴史的な詔書に署名したという胸の昻ぶりだ。

岸にとって〈大東亜戦争〉は〈聖戦〉であり〈侵略戦争と云ふは許すべからざる〉ことなのである。

この論理は、戦中に代議士32人が作った護国同志会(=実質的な岸新党)の「聖戦完遂」論と変わらない。戦後、そのメンバーらが岸派に結集した。

つまり岸の戦前と戦後は、思想においても人脈においても断絶していない。通奏低音のように一貫して流れるのは聖戦イデオロギーである。その辺りに彼が戦後政界で急速に復活できた秘密もあるのかもしれない。

 

それにしても、わかりにくいのは、岸ほど怜悧な人が聖戦イデオロギーに固執した理由である。それを知るために、少し堅苦しいが、次の『断想録』の一節を読んでいただきたい。岸はあの戦争の原因を、遠因と近因の二つに分けている。

〈先進国の二世紀に亘る世界侵略に依る既得権益の確保を目指す世界政策が後進の興隆民族に課したる桎梏、之れを打破せんとする後進興隆民族の擡頭、之れ其の遠因たり。日米交渉に於ける日本の動きの取れぬ窮境、之れ其の近因たり〉

後発の資本主義国である日本が、欧米の先進列強によるアジア支配を打ち破ろうとしていたことが遠因。日米交渉で米国側が無理難題を吹っかけてきたことが近因、つまり開戦の契機になったと言うのである。

岸は大東亜共同宣言(1943年)などを見よと言う。〈万民万邦をして其の所を得しむ〉という理想は言葉だけでなく誠意をもって実行すると約束したもので〈日本の存する限り、大和民族の此の地上に在る限り〉光り輝くとして、こう語る。

〈而して吾々は過去に於て未だ曾て所謂侵略戦争を為したるの歴史を有せず。現在も然かり。又将来も断じてあるべからず〉

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