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自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」

相模原障害者殺人事件から考える
光岡 英稔,福森 伸

本当に自由であるとは?

福森 若い頃は人を殺すことは許せない。戦争は絶対に許せないと思い、そういう考えをする人自体を否定していました。

今はこう思うようになっています。生まれてきて、いまここに生きている人間がしている以上、全てが“アリ”かもしれないと。戦争を肯定しているのではありません。戦争はNOだし、“ナシ”ですよ。

「君は戦争したいかもしれないけれど、僕は全然したくない」という考えには変わりない。けれども「君も生まれて来てしまったんだね。僕もそうだし、お互いしょうがない」というふうになれば、たとえその人の考えには理解は示せなくても、その人が存在することはアリだと受容できます。

光岡 相模原の事件に対しても容疑者の存在はアリと考えますか?

 

福森 やったことは絶対にナシです。でも、彼という存在がいた事実をいくら否定しようとも消すことはできない。その人の存在はアリなのです。

光岡 無論、彼の行為はナシです。むしろ問題は、彼のような存在をアリだと言えないような個々の自信のなさが人の内面にある気がします。

先ほど、私は本能があるから「戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません」とした上で「戦争しないで済むための手立てを考えないといけない」と言いました。

なぜかといえば、私が最もされたくないことを相手にする。ここに良知や良心は抵抗を感じるからです。自分の中にある良知や良心が相手を通じて「それはおかしい」と私に教えてくれるからです。

他者から自分を省みられる。そこに人という種の意味があります。ここでいう「他者性」は社会の価値観や常識といった、私たちがつい気にかけてしまう「他人の目」のことではありません。

翻って、しょうぶ学園の利用者のみんなには他者性があります。でも客観性はないようです。私の存在はわかっても、私が「どう思うか」といった客観的な視点は持っていないように思います。

福森 親が亡くなって葬式から帰ってきた人がいて、僕らは心配して「大変だったね。どういうことがあった?」と聞きました。すると「ご飯をいっぱい食べてきた」と言う。僕らにとっては涙を誘う言葉だけど、彼にとってはリアルだし、葬式だからどうこうという考えに囚われていない。自由なんです。

その人はご飯を食べられてよかったというんだから、「よかったね」と言えばいいのに、僕らは「なんてことだ」と涙が出る。「それは悲しいことなんだよ」と教えようとしたりするわけです。

光岡 それではその人を尊重していないことになりますね。

福森 パソコンを使えない。字が読めない。お金の計算もできない。意思表明ができないから熱が39度あってもそれを言えない。世の中生きていく上では不自由なはずなのに、彼らはどうしてあんなハッピーな顔をしているのか。

僕らは便利だし色んなことをすぐに調べられ、情報は手に入れられる。なのになぜか自信が持てないし、全然自由ではない。

僕らは自由になればなろうとするほど、自由のもたらす障害を抱えるようになっています。約束してもすぐに連絡できるから遅刻しても構わないと思っている。絶対に遅れないようにしようとする方が大事なのではないですか。

自分の欲求を満たすことにかまけ、ますます不自由になる僕らが彼らのしきたりを無視すれば、それが圧力をかけることになって彼らの自由をなくしてしまうことにしかならない。

光岡 彼らを見ていると、やはり武術の究極とも言える自由と自然の絶対矛盾が、矛盾なく成立しているように思えます。彼らから学ぶことが多々あるように感じたのと同時に、人間という種に対して少しだけ希望が持てる気がして来ました。