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自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」

相模原障害者殺人事件から考える
光岡 英稔,福森 伸

彼らのしきたりに従えばいい

福森 彼らのしきたりに従ったらいいんじゃないかと思うんです。彼らは僕らのところに侵入して暮らしを壊そうとしないのだから、僕らも侵入しないほうがいい。

でも、アマゾンにいるわけではないから、多数派である僕らのシステムを知らないとうまく生きていけない。だからこそ彼らの考えを尊重したシステムを社会に加えればいいのですが…。 

マズローの自己実現の欲求論があります。食欲、性欲を満たして自己実現に至るというものです。それを言うなら、彼らの自己実現の達成を手伝うのが福祉のはずです。この場で服を脱ぎたい人、大きな声を出したい人がいたら、それが実現できるアフォーダンス的環境を作ればいい。

他害や自傷行為を容認するのは難しいけれど、他害や自傷があるから問題ではなく、それらが起きるようになった環境が問題なのです。

彼らのほとんどのしきたりは、僕らがオッケーさえすれば問題ない。それが実現できるのが福祉施設のはず。施設の外の社会に出ると健常者の掟が強いから、彼らのしきたりはまるで通用しない。

光岡 こちらのしきたりを教えることによって彼らの身体性や文化を否定し変えようとするわけですね。

何かを教え伝える身でありながらも、私は教えること自体がおこがましい行為だと思っています。教師、指導者の目的がその人の個性を変えようとする教えを中心とするなら、その教育は必ず失敗します。人の個性や身心を育むことが前提に何かを教えるならまだマシですが。

福森 人の本質は変わりません。変わらないものを変えようとして教えるとギクシャクします。圧力をかけることになりはしても、それぞれの人が自分の本質に気付けないままになってしまう。

光岡 しょうぶ学園では、人の本質をめぐってのせめぎ合いが見えます。

しょうぶ学園の園庭

自然と自由と楽は共存できない

福森 障害があって屈折したり、愛情かけられず養護施設でずっと暮らしてきたある人が、18歳でしょうぶ学園に来ました。どうやったら穏やかになっていくだろうかと考えるわけです。

簡単なケーススタディ、つまり支援方針と考察だけではダメなことはわかります。その人が生きてきた18年間かけてやるくらいのパッションがないと愛情の回復はできないのです。

光岡 その場合は、相手のテリトリーに入らないとできませんよね。

福森 懸命に入ろうと思っても「早く帰れ」とか「バカ」と言われます。

こちらのアプローチを圧力だと感じるから、「俺の世界に入ってくるな」というわけです。不適応行動や問題行動と言われます。通常だと「それらを直すにはどうしたらいいか」と考えます。

そうではなくて、この場合は問題行動自体が正しい行動なんです。こちらが圧力をかけているんだから彼が抵抗するのは当たり前です。

その構図がわかると相手に対して優しくなれます。「そうなって当然だよな」と。でも、「すまないけれど、また行かせてもらうぜ」と思ってます。そういう根性がいるわけです。

光岡 圧力のない状態が必ずしも自然とは言えません。夏にクーラーがあると楽に過ごせます。楽だから自然かというと、そうではない。しかし、楽を求めるところに人間としての自由はあります。木を切って土を掘り返し建物を建て、クーラーをつけて快適に過ごす。それが自由や楽の象徴であり文明の証でもあります。

私たちはコンクリートの建物よりも野山や小川を見ることに自然を感じます。そちらの方が自然なことは皆わかっています。けれども自然の中で自然のルールと共に過ごすことは人にとって不便さや不自由を意味します。

自由を求めると「山があれば削って、川を掘って快適な環境にすればいい」という振る舞いにしかなりません。そういう発想のもとで最終的には原発までつくりました。

人には自我や本能と、それらが求めるものを実現できる知能やテクノロジーがあります。それゆえ戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません。でも、本来なら知能を用いて戦争しないで済むための手立てを考えないといけない。そのために知性があるわけですから。