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日本

戦後日本に「初詣」が定着した意外な理由〜実は最近のことだった!?

クルマの普及と交通安全祈願

近代初詣の誕生

神社仏閣の初詣の人出は2008年(平成20)に過去最高となる9818万人を記録し、翌09年には前年を上回る9939万人を突破した。

警察庁は09年の発表を最後に初詣の人出調査の発表を取り止めたことから、警察庁の記録においてはこの年が過去最多の人出記録となっている。

しかしその後も、初詣の人出は衰えをみせていない。

年の始めにあたり、「今年1年がよい年でありますように」と願うことは、多くの日本人にとって、素朴で切実な思いの現われだろう。

ところが、正月三が日に、地元の氏神社や菩提寺ではなく、郊外や遠方の社寺に初詣に出掛ける「風習」は、明治時代中期に成立したという説が交通史の立場から唱えられている。

その年の「恵方」にあたる社寺に参る「恵方詣で」や初天神・初不動・初午・初巳などの「縁日」にこだわらない「初詣」という言葉は、1885年(明治18)の『万朝報』記事中の、川崎大師(金剛山平間寺・神奈川県川崎市)への正月参詣を指す際に初めて登場したというのだ。

この説は、初詣の「成立」について説得力をもつものだが、現在につながる戦後社会において初詣が「定着」した理由は、別の要因が大きいのではないかと私はみている。

1950年代後半、昭和30年代から始まる「交通戦争」が、「戦後型初詣」定着のきっかけだったのではないか。

このような仮説を、初詣人出ランキングでは毎年上位に位置する成田山新勝寺(千葉県成田市)や川崎大師の寺格や近現代史から明らかにしていきたいと思う。

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「成田山」の戦中と戦後

例年、明治神宮に次ぐ全国2位、千葉県内1位の初詣参詣者が押し寄せる新勝寺は、不動明王を本尊とし、近世には江戸への出開帳で庶民の信心を集め、日清戦争の頃からは鉄砲玉から身を守る「身代わり札」で信仰を広めた。

日中戦争が勃発すると、国威宣揚・武運長久を祈祷し、戦勝を祈願したことから、門前町は空前の盛況を呈することになる。

1938年(昭和13)には戦闘機「新勝号」「成田山号」を陸海軍に献納、また真珠湾攻撃の翌日には献納金をおさめるなど、戦争に積極的に協力した。その後も、日中戦争の長期化にともない、出征軍人やその家族の参詣は増え続けていった。

しかし敗戦は、日本人の神仏に対する崇拝観念を揺るがせることとなり、「大東亜戦争」に積極的に加担した神社神道や仏教諸派は大きな打撃を蒙ることになる。

「信教の自由」を保証した新憲法の公布、都市化の進展に伴う人口移動などのなかで、社寺への参詣は積極的には行われなくなった。戦勝祈願で名をあげた成田山新勝寺への参詣客も、敗戦直後、激減したことは言うまでもない。

 

こうした戦中の活況の反動は、敗戦から7、8年後から、初詣を中心に回復に向かう。1953年(昭和28)には元日と2日の2日間だけで15万人の初詣客があり、正月1ヵ月では約800万人の初詣客が新勝寺を訪れた。

さらに、55年の初詣参詣者は、正月1ヵ月間で852万人以上を数えた。戦後の低調を脱して成田山は次第に隆盛に向かい、この頃から自動車参詣者の増加が顕著になっていくのである。

大晦日から元旦にかけての参詣者数が110万人に達した1957年(昭和32)は、1月1日から20日までに駐車場を利用した自動車台数は大型バス等含めて2万台、利用者は38万人にも及んだ。これを国鉄利用者の12万人、京成利用者数の16万人と比べると、いかに車による参詣者が多いことがわかる。

61年の正月は、3日までの初詣客は約47万3000人、3日間に来た車は約6万3800台(うち観光バスが約2万5100台)、大晦日から元旦にかけての車の数は約5万9000台に上った。