国際・外交
シベリア抑留「4万人死亡名簿」をたった独り調べ続けた日本人がいた
一日10時間を10年間、休むこともなく

生きて帰ってよかった

シベリア「最後の抑留者」が帰国してから60年。前編ではその歴史的経緯と、戦後の補償を勝ち取るために戦った人たちと「全抑協」のことを紹介した。一方、抑留から帰還後も、長く闘い続けたのは全抑協だけではない。
 
日本現代史に黒々と深く刻まれるべきシベリア抑留だが、アカデミズムにおける研究は絶望的に立ち遅れた。
 
筆者のみるところ、理由は大きく言って三つある。つまり①戦後長く、アカデミズムの一部にソ連とソ連式共産主義を重んじる親ソ派が存在したこと②抑留者の有力団体が対立関係にあり、大学の研究者らが一方に肩入れすることが難しかったこと③ソ連の史料にほとんどアクセスできなかったこと、である。
 
特に大きかったのが、③だ。歴史学にとって史料の存在は決定的に重要である。そもそも、ソ連が自国の犯罪を公にするはずもなかった。冷戦下、ソ連を盟主とする東側諸国と対峙する、西側諸国の日本に対してはなおさらである。
 
研究は進まず、したがって抑留の全容、たとえば抑留された人数や死者数、収容所がどこに何カ所あったのか、今に至るまで分からない。そもそも、なぜスターリンが抑留に踏み切ったのか、理由も分からない。死亡者の名簿もなかった。
 
こうした研究の荒野に鍬を入れたのが、在野の研究者で、その多くが抑留経験者である。村山常雄さんは、その一人である。
 
新潟県出身。19歳で陸軍に召集され、満州の関東軍に入隊した。敗戦後、ソ連領に歩いて向かう途中、日本人らしき遺体が散乱していた。

「自分が歩くだけで精いっぱいでした。手を合わせることもできなかった」

 

戦友が歩けなくなった。「待ってくれ」という声が聞こえたが、助けることもできなかった。「自分の靴が壊れたときは、遺体からとって履いたんです」。劣悪な収容所でもたくさんの仲間が死んでいった。
 
49年8月に帰国した。働きながら資格をとり、中学校の教師となって85年まで務めた。教員生活の晩年は、全国で学校が荒れていて、苦労もあった。それでも「生きて帰ってよかった。人生っていいもんだ」と感じたという。一方で、シベリアで死んでいったたくさんの人たちのことを悼む気持ちが強まっていった。

大きな転機になったのは1991年4月。ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)が来日した際、抑留中に死亡した約3万8000人の名簿を日本政府に提出した。政府は翻訳して公開したが、漢字表記が分からずカタカナだった。「ソミタニイ・イスツルン」といった、日本人の名前とは思えない、記号のような文字が並んでいた。「シネオ」「シネゾウ」などという、死者の尊厳を踏みにじるようなカタカナもあった。

ソ連は抑留者を尋問し、記録に残した。ただ、日本語の発音を正確に聞き取れず、なおかつそれをロシア語で記述したケースが多かったようだ。さらにそれをカタカナに変換するうえで、およそあり得ない名前になってしまったのだろう。
 
村山さんは、その名簿を見て思った。

「たくさんの人たちが若くしてバサッと命を奪われた。名前は人格。国が始めた戦争で犠牲になったのに、『無名戦士』として終わらせることは許されない」