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近代史
そもそも日本は何のためにアメリカと戦争したのだろう?
「目的」は終始混迷していた

今から75年前、日本はアメリカとの戦争に踏み切った。しかし、なぜ戦争しなければならなかったのか? そもそも目的はなんだったのか? 改めて聞かれると、実はよくわからない。

当時の政策決定者たちは、なぜ「最悪」の決定を選んだのか。日・米・英の情報戦と政策決定の実態を丁寧に追い、日米戦争の謎に迫った話題作『日米開戦と情報戦』よりその一部を特別に紹介します。

戦争目的の混迷

日本は、なぜアメリカと戦争をしたのだろう。この問いに即答できる人は案外少ないのではないだろうか。

高校の日本史や世界史の教科書を開いても、日本の「南進」政策やABCD包囲陣、アメリカのハル・ノートなどさまざまな記述があるが、はっきりとした原因を読み取ることは難しい。これは教科書の執筆者にも起因する(当該期の専門家が執筆陣に入っていないケースすらある)が、この戦争に固有の特徴に影響された側面も大きい。

一般的には、戦争は政治の延長と考えられている。クラウゼヴィッツの「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」というテーゼは、しばしば引用される(『戦争論』初版1832年)。

当事国が平和的手段である「外交」によって問題が解決できない場合に、「武力」で決着をはかるのが戦争ということである。そこには何らかの争点が存在し、理性的な検討を経て戦争という選択がなされると理解される。

しかし、この枠組みでは理解困難なのが、日米戦争なのである。その過程ではつねに原因と結果、目的と手段が不断に錯綜し、戦争指導は困難をきわめた。

さらに、この戦争は未曾有の規模で戦われ、前線と銃後の境界は曖昧となった。それ故、戦争体験者の身に起こったことは千差万別だった。

戦争目的の混迷と戦争の巨大さ、この二つは一般的な歴史認識が戦後に形成されることを妨げた大きな要因であり、それは現在においても克服されたとは言い難い。

 

戦争の巨大さについては筆者の手に余るため割愛するとして、戦争目的に関する混迷の例を一つ示そう。

開戦後2年を経過した1943(昭和18)年末、昭和天皇に国情を伝えるべく高松宮(昭和天皇の弟、海軍大佐)との連絡係の任に細川護貞(もりさだ)(細川護熙元首相の父)が就いた。義父である近衛文麿の要請だった。

細川の日記をひもとくと、1943年11月末にいたっても、戦争目的に関する議論が政府と軍のあいだでくりかえされていることに驚かされる。

もちろん、この事実をもって日本は目的もなしに戦ったなどと批判をするつもりはない。1943年秋といえば、フィリピンやビルマなど日本の占領地の代表を集めた大東亜会議が開催され(11月5、6日)、戦争の完遂と大東亜の建設をうたった大東亜共同宣言が採択された直後である。

つまり、日本の戦争目的を明示したはずの共同宣言を出した後も、日本は戦争目的を確立できていなかったことに着目したい。

戦争は暴力の行使であり、勝利を至上の目的とする。そのため、いったん発動されてしまうと、当事者の当初の意図をはるかに超えて、独自の論理で動き出してしまう性格を持っている(このこともクラウゼヴィッツは指摘している)。

戦争目的に関する議論は、米英との戦争をはじめた後も、陸海軍や外務省のあいだで、延々とくりひろげられてきていた。戦争目的の確立は、その後の軍事行動を規制するため、きわめて微妙な課題でありつづけた。

これが当時の政策決定の内実だったのである。

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