近衛文麿の自室にあった薬瓶/Photo by gettyimages
近代史

なぜ近衛文麿は自殺し、岸信介は生きる道を選んだのか

二人の明暗を分けたもの

近衛文麿の自死

1945(昭和20)年12月15日、荻窪の荻外荘は夜更けまで友人たちの出入りが絶えなかった。主人の近衛文麿がGHQの逮捕指令により、翌16日、巣鴨プリズンに出頭することになっていたからだ。

近衛の女婿・細川護貞の『細川日記』によれば、家族や側近の者たちは近衛がこの夜、自殺するのではないかと心配していた。近衛が風呂に入ると、その間に毒物がないかどうか、彼の衣服や部屋の中を探し回った。

近衛文麿〔PHOTO〕gettyimages

しかし、妻の千代子は夫の死を覚悟していたらしい。次男の通隆(当時23歳)から毒物探しについて相談されると「あなたは皆さんと一緒に探されたらいい。しかし私は、お考えの通りになさるのがいいと思うから探しません」と言った。

午前1時ごろ、通隆は父のベッドに入り、いろいろなことについて語り合った。日本の将来が共産主義化されること、したがって国体護持が極めて難しいこと、しかし、近衛家に生まれた者はあくまで国体護持に努めるべきこと……。

午前2時ごろ、近衛は「僕の心境を書こうか」と言い、近衛家の便箋に次のように記した。

〈僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難いことである……〉

午前3時ごろ、通隆は意を決して「明日は(巣鴨プリズンに)行って下さいますね」と訊いた。近衛は「ああ、そりゃ行くとも」と答えた。通隆が「今日は親子で一緒に寝ましょうか」と言うと、近衛は「僕は人がいると寝られないから一人にしてくれ」と言った。

午前6時、千代子が近衛の部屋に燈があるのを見て、入っていったら、夫はすでにこと切れていた。体の温かみは残っていた。青酸カリ自殺だった。

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