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国際・外交
「奴隷のままでは死ねない」シベリア抑留後を闘い続けた男たち
推計6万人死亡の悲劇から60年

大切な20代を台無しにされた

今から60年前の1956年、12月26日。舞鶴港(京都府)に引揚船「興安丸」が入港した。「シベリア抑留」で11年もの間、ソ連によって不法に拘束されていた日本人およそ1000人が乗っていた。

そのうちの一人の男性(1924年生まれ)に、筆者はインタビューしたことがある。

「大切な20代、30代を台無しにされた。ソ連に対するうらみつらみはありますよ」

男性はそう語った。彼は戦時中、関東軍の細菌戦を研究する機関に所属していた。抑留された後、ソ連の裁判で「矯正労働所収容15年」の判決が下された。「ソ連領を毒で汚染した」という理由だが、事実ではなかった。

前述の「興安丸」に乗っていた者たちは、この男性のようにソ連による不当な裁判で「戦犯」と断罪された、長期抑留者が含まれていた。

不当といえば、抑留自体が国際法に違反していた。日本に降伏を勧告し、ソ連も参加したポツダム宣言には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる」とある。しかし、ソ連はそれを守らなかった。

1945年8月9日未明。ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し(つまり国同士で結んだ条約をなかったことかのように無視し)、満州国との国境を越えてかの国になだれ込んだ。満州国は日本の植民地で、当時150万人もの日本人が暮らしていた。

民間人は日本軍が自分たちを守ってくれると思っていたが、実際は違った。「無敵」を自認していた満州の日本軍(関東軍)は、1941年に始まった米英との戦争によって主力を南方に移動させられ、ソ連が攻めてきたときは空洞化していた。ドイツとの死闘を制したソ連軍の敵ではなかった。

 

死亡者推計6万人

日本の敗戦後、軍人や軍属、民間人らおよそ60万人がソ連領やモンゴルに移送された。一般には「シベリア抑留」と呼ばれるが、収容所は広くソ連領全域に及んだ。いわば「ユーラシア抑留」なのだが、本稿では通例に準じて「シベリア抑留」とする。

①重労働②餓え③極寒という「三重苦」に加え、④日本人同士の相克、という悲劇も加わって推計6万人が死んだ。以下やや詳しくみると、 

①ソ連は戦争によって不足していた労働力を日本人に求めた。鉄道敷設や森林伐採、炭鉱労働など。重機は少なく、ほとんどが人力によるものであった。極寒と飢えのなかでの重労働はそれ自体が拷問ともなった。

②もともと国土が疲弊したうえ1945年、ソ連の穀倉地帯ウクライナの農産物が不作であったこと、さらに広い領土全体に散らばった収容所に、食糧を安定して配給するシステムが確立していなかったことなどのしわ寄せが、抑留された日本人に及んだ。

具体的には「(収容所の食料事情について)量、質ともにはなはだしく不足し、油気のないスープ、こうりゃん等雑穀のかゆ、馬鈴薯等が通常の主食で、時に魚、肉、黒パン等が与えられるにとどまり、健康を維持する最低限のカロリーの摂取さえ困難な状況であった」(『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省援護局編、ぎょうせい、1978年)。

③地域にもよるが、冬季は零下30度~40度に達する地域もあった。これも抑留初年の1945年の冬はそうした厳しい寒さを耐え得る住居、衣料も不足していた。

④ソ連は抑留を効率的に行うために、旧日本軍の階級秩序を利用した。その結果、元下級兵士が理不尽に酷使されたり、食糧を削られたりすること、換言すれば元幹部が彼らを犠牲にして特権的待遇を得ることがあった。このことは極限状況で助け合い、励まし合うはずの日本人同胞の間に深刻な亀裂を生んだ。

旧軍秩序を解体すべく、各収容所で起きた「民主運動」(民主化運動とも)によって、理不尽な差別は解消していった。しかし民主運動が行き過ぎた結果、旧軍時代の上官を集団で迫害する「つるし上げ」が横行したり、「ソ連式共産主義」に洗脳されるか洗脳されたふりをしたりして、自分たちを不法に拘束しているソ連を「ソ同盟」とほめたたえる倒錯した「思想」が広まり、これに反対する者たちとの間に新たな亀裂が生じた。

死者は6万人であるが、犠牲者はこれにとどまらない。その遺族、あるいは生きて帰っても者たちの中にも、冒頭の男性のように大切な青春を奪われた人、病気を得たり怪我を負った人、あるいは「アカ=ソ連に洗脳されたソ連式共産主義者」という偏見によって周囲から疎外された人などを含めれば、犠牲者は数十倍にふくれあがるだろう。