「真田丸」公式サイトより

徳川家末裔がいま語る「真田丸の真実」〜「家康は幸村が好きだった」
なぜ真田幸村は人々を魅了したのか

家康の性格はいかに形成されたか

『真田丸』はいよいよ終盤になってまいりまして、ご先祖である徳川家康も貫禄を持った大人物に描かれるようになりました。

一方、私にとっては、真田一族も身近な存在なのです。田安家出身の老中・松平定信の息子は、真田信之が藩祖である松代真田家の8代当主・幸貫として養子に入っていますから。

ドラマの中では「徳川の天敵」だった真田家ですが、江戸後期には徳川の親戚になって、しかも真田幸貫は老中を務めて幕府を主導しているのです。

こう語る徳川宗英氏は8代将軍・徳川吉宗が創設した「御三卿」と呼ばれる田安徳川家11代当主。独自の視点から『徳川家が見た「真田丸の真実」』など数々の著作を発表している。

家康という人は深謀遠慮の人ですが、彼の性格を形づくった大きな要因に、幼少時の体験があります。

岡崎の小豪族・松平家の跡取りだった家康は、6歳で今川家に人質に出される途中、家臣の裏切りから織田家に売り飛ばされ、その後、人質交換の材料となって改めて12年間、今川の人質として駿府で過ごしています。

この境遇、誰かと似ていませんか? 真田信繁です。信繁は、父・昌幸の計略のため上杉景勝(遠藤憲一)の元に人質に出され、その上杉から譲られるようにして秀吉の側に仕えるようになりました。周囲の強い勢力に翻弄され苦労する真田家に、じつは家康は相当共感を抱いていたと、私は思うのです。

また、家康は戦を嫌う人です。生涯にわたって数々の戦を戦い抜いていますが、自分から仕掛けた戦いというのは、ほぼない。

家康は、粘り強く説得しますし、信長や秀吉と違って相手を抹殺しようとはしません。豊臣家だって、淀君があんなに暴走しなければ、一大名として残してあげたのではないでしょうか。現に、秀吉一族である木下家は明治維新まで備中足守2万5000石の大名として存続しています。

私は信長も秀吉も「天下統一後の日本」というグランドデザインを描いていたとは思えないのですが、家康だけは、「自分が天下をとったらこういう国を作ろう」という具体的な構想があったと思います。

後世の軍記物やら講談本は「真田幸村」の活躍を書いたけれど、実際のところは平和な世になったからこそ、幸村が凜々しく家康の陣に突撃する様子に民衆が喝采したんでしょう。

「週刊現代」2016年12月17日号より