読書人の雑誌「本」
信長が「権力の誇示」「慰安と娯楽」のためにつくった城の全貌
「真田丸」とは大違い

12月18日に最終回を迎えたNHK大河ドラマ『真田丸』のハイライト――1614年の大坂冬の陣に際し、信繁(幸村)が築いた出城「真田丸」は、激闘の舞台となった。一方、「真田丸」の築城より35年前の1579年、国家的プロジェクトとして信長が築造した安土城に、軍事機能が見られなかった。全国的規模で戦乱が日常化していた戦国時代、「戦国の覇王」信長の城はなぜ無防備だったのか。

発売されたばかりの『織田信長の城』の著者・加藤理文氏の特別寄稿。

発掘調査で見つかった「驚くべき姿」

まさに今、信長の城の研究は、新たな局面を迎えつつある。それは、安土城(滋賀県近江八幡市)以前に築かれた、小牧山城(愛知県小牧市)と岐阜城(岐阜県岐阜市)の発掘調査が急激に進展したためである。

従来、信長の清須から小牧への移転は美濃攻略を目的とするもので、美濃に近ければ情報を把握しやすく、出撃の利便性も高いと考えたからではないか、と見られてきた。

これは、小牧山築城が永禄6年(1563)、岐阜への移転が同10年と、わずか4年の在城でしかなかったためで、小牧山城も簡易な砦程度と思われてきた。

ところが、発掘調査の進展によって、驚くべき姿が見えてきた。じつは小牧山城の主郭は、総高6メートルに及ぶ段築状に築かれた3段の石垣が周囲を取り囲んでいたのである。しかも、最上段は1個2トン以上の巨石を使用しており、圧倒的な規模の石の要塞であった。

 

安土城より10年以上先行するにもかかわらず、安土城の大手道同様、山麓から中腹まで150メートル余にわたる直線通路も採用されていた。時は、戦国まっただ中。各地に割拠する戦国大名たちは、城と領国を守るべく、工夫を凝らした防御施設を導入し、軍事要塞としての体裁を整えている。

だが、信長が築いた小牧山城には、巨大な堀もなければ高い土塁もなかった。言うなれば、まったく無防備の城だったのである。

小牧山は、濃尾平野の中に浮かぶ島のような、ただ一つの独立丘陵だ。その山頂部に巨石を積み上げ廻らした城を築くことで、領国内はおろか遠く美濃からも見えるようにすることがねらいであったとしか思えない。

今まで尾張国内では誰も見たこともない「見せるための新城」を構築することで、明確に権力が信長に集中していることを知らしめようとした意図が見えてこよう。

この小牧山の構造にこそ、安土城の真の姿に迫るヒントが隠されていた。なぜ主要部を石垣で囲む必要があったのか、なぜ直線の大手道が築かれたのか――発掘調査の進展から、その答えがおぼろげに浮かんできている。

「日本初」の斬新な部分

さらに、岐阜城の発掘成果との比較検討が可能になったことで、安土城の姿に近づく道が見えてきた。

永禄10年(1567)、長年の夢であった美濃国をついに支配下に置き稲葉山城へと入った信長は、中国の周の文王(紀元前1152~紀元前1056)が岐山から興って天下を得た故事にちなみ、城下の名を岐阜へと改めた。さらに、「天下布武」印の使用を開始する。ここに、天下静謐を公に目指した信長の岐阜城改修が実施されることになる。

山上山下ともに大幅に改修し、天下統一の拠点に相応しい体裁に仕上げた信長は、岐阜城に何を求めたのであろうか。

小牧山城は、まさにゼロから築き上げた信長の城そのものであった。

だが、岐阜城は斎藤氏の城を引き継ぐ形であったこと、険しい稲葉山が山麓居館の背後に聳え立っていたこと、さらに山麓西側を大河長良川が流れるという、大きな地形的制約があった。そのために、山上の詰城と山麓の居館という二元構造を持つ極めて中世的な色彩の強さを残すことになってしまった。

大きな制約の中ではあったが、岐阜城には小牧山城からの連続性を示すものや、岐阜城が「日本初」となる斬新な部分が、多く存在する。

まず、小牧山城で初めて導入された「巨石を立て並べた石垣」は、形は変わるものの通路脇の石垣や山麓に築かれた公式の対面所と奥向き御殿を区切るべく、岐阜城にも引き続き採用されていた。

また、山麓御殿を築くための曲輪構築に際しては、小牧山最大の石材の倍以上の巨石を土留めとして使用。槻谷の傾斜地や谷川は、自然地形を利用しつつ巨石を配置することで、人工的に改変が施されてもいる。

だが、山上部で確認される巨石石垣は、一の門周辺と、二の門周辺のみでしかない。山上部にない理由は簡単で、山上部まで巨石を運び上げられなかったためである。そのためか、小牧山城の二、三段目に見られる中・小石材を横位に置き、メジを通すように積まれた石垣が、山上部でより高さを増して使用されている。

著者の加藤氏は、12月23日からパシフィコ横浜で開催される「お城EXPO2016」に登場、トークショーを行う予定だ

「権力の誇示」と「慰安と娯楽」が目的

岐阜城で最も注目されるのが、山麓御殿の中心施設であった四階建ての御殿だ。

従来の戦国大名の館は、室町将軍の居館(花の御所)を模したもので、儀礼や祭、年中行事など、特に正式・公式な対面行事が催される公式の場(ハレ)と主のための私的な生活空間であり、庭も併設される日常生活の場(ケ)とに大きく分かれていた。内部には、主殿・本主殿・常の御座所等が建ち並び、泉水・築山が配されていた。

ところが、岐阜城の山麓居館は、極めて革新的で異質な空間であった。中心建物は、残された記録から後の飛雲閣のような構造が推定される。

平屋建物を並べ繫ぎ合わせる従来の屋敷ではなく、上へ上へと伸びる重層建造物で、各階ごとに公式の場と日常生活の場が分離するという、我が国では例を見ない建物であった。これこそが、安土城天主へ直接繫がる建物の祖型ではないだろうか。

また、山麓御殿内にはさまざまな形の庭園が設けられていた。都を支配下に置いた信長が見たであろう慈照寺や鹿苑寺の庭園をヒントにしたと思われる施設が、6ヵ所ほど確認される。