近衛文麿(左)浅野良三と Photo by gettyimages
近現代史

近代日本の悲劇「大政翼賛会」はこうして生まれた

近衛文麿に欠けていた強固な意思

近衛新党はなぜ大政翼賛会に変貌したか

公爵・近衛文麿は生まれて8日目に母を産褥熱でなくした。やがて父は亡き妻の妹・貞子と結婚し、文麿は後に4人の異母弟妹をもつことになる。

だが、文麿は相当長ずるまで貞子を実の母と思っていた。それだけに真実を知った時の衝撃は大きかった。彼は後年回想して、それ以来「世の中は嘘だ」と思うようになったという。

岡義武著『近衛文麿』(岩波新書)の冒頭を飾るエピソードである。彼に終始つきまとう虚無感や孤独感。敗戦後に服毒自殺を遂げるまで54年の人生は彼にとって何だったのか。一度でも死に物狂いで事に当ったことがあったのだろうか……。

そんな勝手な物思いにふける前に機密費の話にけりをつけなければならない。陸海軍から第二次・第三次近衛内閣に上納された機密費が、近衛新党のための議会工作に使われた可能性があることを前回ご説明した(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50349)。

今回、私が述べるのは、近衛新党が大政翼賛会に変貌していく経緯だ。翼賛会は最終的に公事結社(政治に関係のない公共の利益を目的とする結社)とされ、「たとえば衛生組合のようなもの」と位置づけられた。

近衛の国民的人気を頼りに新党へ合流しようとした各政党にとっては大誤算である。政党だけでなく陸軍も近衛側近もみんな新党に期待したのに、なぜこんなことになったのか。その理由を簡単に述べておきたい。

 

1940年、ドイツの電撃作戦を受けて騒然とする最中の同年6月、近衛は枢密院議長を辞任した。そして「内外未曽有の変局」に対処するため「強力なる挙国政治体制」を確立する必要があるという声明をだした。

と言っても、実際には、このとき近衛は自力で「挙国政治体制」を作る覚悟も具体的構想も持っていなかったらしい。その証拠に、彼は「新政治体制の樹立はむしろ政府が当ってはどうか」と、当時の米内光政内閣にその設計と実現を一任しようとして拒絶されている。

これには伝記作者の岡も〈余りにも無造作といえるこの態度は、事にみずからあたる自信の乏しさを物語るものであるだけでなく、熱意の不足をも示すものであろう〉と呆れている。

この年7月、近衛は軽井沢の別荘に東京帝大法学部教授の矢部貞治を招き、新体制の具体的立案を依頼した。その際、近衛は大略こう語ったという。

「今の日中事変を収拾するには、陸軍を抑える『国民的な輿論を背景にした圧倒的な政治勢力』を持たなければならぬ。が、既成政党の離合集散ではそんな勢力は生まれないので自分としては新党創立の考えはまったくない。同時に、新体制が一国一党の樹立となり『幕府的存在』になるのをどこまでも避けたい」

要するに、自分が率いる党が国家の指導機関になると、天皇をないがしろにすると観念右翼(=皇国思想の極右)から批判されるので党は作らないという。新党樹立論者だった近衛の心変わりである。

理由は諸説あるが、この時期、観念右翼は近衛に激しい非難を浴びせていた。なかには近衛を殺せと息巻く者もいた。

もともと近衛は観念右翼と親しい関係にあったから余計にこの攻撃が応えたらしく「新党について世間ではいろいろといっているが、それらの中で幕府的存在云々という非難が一番不愉快だ」と周囲に漏らしている。

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