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国際・外交 読書人の雑誌「本」

日本はなぜ開戦に踏み切ったか? 真珠湾攻撃「情報戦」の真実

アメリカの正義はこうして作られた

日米戦争という難題

日本は、なぜアメリカと戦争をしたのだろうか。以前、当時の日本の政策決定過程を検討した『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』(新潮選書)を上梓したが、その鍵となる概念は「非決定」と「両論併記」であった。

強力なリーダーシップが存在しない日本が危機に際してずるずると戦争に向かっていく過程を描いた拙著は、単なる過去の話ではなく、身近に感じられる事例として読者の方々に受け入れていただけたようである。

日米が戦争へと向かう大きな分水嶺となったのは、1941年7月の日本の南部仏印(現在のベトナム南部)進駐と、それに対する米英オランダ(蘭)の対日全面禁輸だった。しかし、後世から見れば決定的と思える日米の決断が、どのような意図をもってなされたのか、一般にはあまり理解されていない。両国ともに、その決定過程がきわめて複雑だからである。

該書でも紙幅の関係から対象時期を全面禁輸以降の日本の状況に絞ったため、これに触れることができなかった。今回、この難題に挑んだのが、『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書)である。

本書では、まず南部仏印進駐に至る日本の政策決定過程を分析し、なぜその選択がなされたかを再検討した。

じつは「非決定」や「両論併記」は、南部仏印進駐とその先触れとなったタイと仏印との国境紛争調停の分析から導き出された概念である(故吉沢南氏が『戦争拡大の構図』〈青木書店、1986〉で「両論並立的秩序」という概念を提唱され、それを継承・発展させた「両論併記」に「非決定」という概念を加えたのが森山「「非決定」の構図」『軍事史学』27巻2・3、1991)。

「国策」と「情報戦」

米英との戦争は避けたいが「南進」(イギリス・オランダなどの南方植民地への進出)の足がかりとしてまずタイと仏印への影響力を増大させたい陸海軍、彼らの足許を見て挑発しつつイニシアチブを握ろうとする松岡洋右外相、そのせめぎ合いから生まれたのが、幾多の「両論併記」の「国策」文書だった。松岡が、「国策」のあいまいさを利用して陸海軍を手玉にとる様子は、じつにスリリングである。

 

しかし、舵取りに失敗した松岡は閣外に放逐され、日本を危機が襲う。米英オランダの対日全面禁輸である。そもそも、石油の対日禁輸は、日本を石油のための「南進」に駆り立てる(最も近い産油地帯は蘭印=現インドネシアだったため)危険性が高いと考えられていた。特にコーデル・ハル米国国務長官ら慎重派はそうであった。

それがなぜこの時期に決定されたのか。

アメリカの研究者のあいだでも見解が分かれている。従来、その背景には、アメリカが解読した日本の外交暗号電から得たMagic情報があったとされてきた。

ハルは、日本が7月2日の御前会議で決定した「国策」(「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」)を入手し、日本が「南進」することを知っていたと証言している(日本が「南進」を決めたなら、禁輸に反対する理由はなくなる)。本書の次なる課題は、情報戦である。

しかし、この「国策」は「南北準備陣」と評されるように、「北進」(ソ連を攻撃する。6月22日にドイツがソ連に侵攻した直後だった)と「南進」を併記し、そのための準備を整えるとした、典型的な「非決定」「両論併記」の文書だった。

ハルの証言が正しいなら、なぜ彼は日本が「南進」すると判断したのだろうか。ほんとうにアメリカはMagic情報で日本の意図を正確に察知していたのだろうか。ハルの回顧録、スティムソン陸軍長官の日記や、イギリスの外交文書を精査すると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。